![]() さて、続きである。「情報が経済を凌駕する」この時代、家族で賑わう週末の大規模店鋪群のどこに、その衰退を伺い知る事ができるであろうか? 『3 大規模小売店鋪の衰退』-------------- 消費者と最も近い位置で対峙する「小売店鋪」の変遷を考える時、まず思い浮かぶのはその「レイゾンデートル(存在意義)」である。モノを売るとは如何なる行為か?言い換えれば、消費者は何故モノを買うのか? これは単純な答えで、結局は「利便性と知的好奇心の追求」である。 実際のところ「衣・食・住」に限定すれば我々の消費活動は極めてシンプルなもので、そこに動く金銭の流れと言うものはタカが知れている。仮に今この国の人間全てが「シンプルな生活」をその主眼とし、家計の残高を貯蓄に回したとするならば相当数の企業が破綻するのは目に見えて明らかである。そこから新たな「購買意欲」を掘り起こすための商品発表の場という意味合いが「大規模小売店鋪の発達」の主たる原動力であった。 そこに行けば「何かがあり」そこに行けば「何でもあった」。だから人々は「そこに行く」のだ。それが「デパートメントストア」であり「スーパーマーケット」であった。さらに方向性は二極分化し「利便性追求型」の「ディスカウントストア型」と「好奇心追求型」の「ファッションビル/テーマパーク型」にその変貌を遂げていったのがこれまでの流れである。ではこれが一体どのような方向性を持って展開していくのか? ------------------------------------------ そもそも店鋪が大規模である事には、さしたるメリットは無い。 心理的に考察すれば、人間の行動はxyの「二軸」が存在する。横方向xを「積極性」「消極性」とするならば、縦方向yは「能動性」「受動性」である。ここで仮に「知的好奇心の充足」を「利潤」に結び付けるためにはx=プラス、y=マイナスにベクトルを向けなければならない。つまり「積極的である受動性」を持たせなければならないのだ。これが「エンターティメント」の考え方であった。「受動性」に積極性を持たせるためには、演出によって「流行」を作るのが近道なのだ。 結果消費者のベクトルは方向が一致し、その時代に売れる商品が決定する。だがこの方法は「追い網漁」のようなもので、先に行けば行くほどその方向性は絞り込まれる傾向にある。流行の目的自体がその絞り込みにあるのだから仕方が無いといえばそれまでなのだが、この方法論は、大規模小売店鋪を「知的好奇心追求の場」と定義付けて発展させるためには、完全に矛盾を起こす結果となる。 つまり「消費者の欲しいものが決まっているのに、そこに敢えて数多くの類似製品を置く必要はない」のだ。消費者が求めるのは必然的に「専門店」ということになり「大規模店」ではなくなる。しかし大規模店はその性質上「売れるか売れないか分からない類似製品」も品目として取り揃えなければならない。それが「在庫抱え込み」という負担を産み出す。もともとその負担軽減のために考え出されたのがPOSシステムであった。 だが買い手のつかないレアな商品を「専門店鋪」でもないこれらの大規模店がいつまでも抱え込む訳には行かず、そうかと言って「無い商品はメーカーから取り寄せる」というのでは近所の小売店と何ら変わりが無い。情報が氾濫し購買意識が売れ筋に集中すればするほど、大規模店はその「品揃えの豊富さ」が単なる「ウィンドゥショッピング目当ての客の目の保養」としてしか意義を見出せなくなっていく。ゲーム業界、家電業界では特にこの状態が顕著に現れているのが現状で、全く動きの無い商品のためにその「単位面積あたりの利益率」は極端に下がり、その面積に係る人件費に追い付かなくなっていく。 客を「玄関をくぐった人数」で意識した商売の結果である。客は一人一人が客であり、一人の人間の脳内情報としてあれだけの商品陳列は、意味を成さないとは言わないがあまりに「ロスが多い」のだ。大規模店鋪が維持されるためには「客に商品を選ばせる」振りをして「店鋪側が売りたい商品/利益率の高い商品を買わさなければならない」。 そこで登場したのが「特価商品」という戦略であった。「在庫処分市」「在庫一掃セール」という宣伝文句は大規模店の切り札であり、店鋪の大きさや品揃えより、これこそが現在までの大規模店を支えてきた第一の要因であった。商品の安値自体を「広告」として利用するのだ。 良いものが安くで手に入る「原産地」から商品を輸送し、それに利潤を追加して売ると言うのが商売である。これは昔から変わらない原則で、これに真っ向からぶつかった戦略が「特価商品」という人寄せパンダである。この形態の最終型が「ディスカウントストア」なのだろうが、現金決済による仕入れ値の引き下げや薄利多売で利潤を積もらせるこの方式は、昭和の時代にはまことに劇的な成果をあげるに至った。地域行政も積極的に大規模店鋪の誘致に乗り出し、地域開発にリンクした大規模店鋪の成功は、 しかし平成の世に入ってからは、急速にその勢いが衰える事になった。 なぜか? 上記の様々な利潤追求の考えは、あくまで「経済原則」に則ったものである。だからすべての経営者には「見える」事柄なのだ。しかしここから先は「見える者と見えない者」が存在する。コストパフォーマンスだけに思いを巡らせるには価格破壊が進み過ぎてしまった現在、 「これ以上どこから利潤を産み出すのか」 「これ以上どこに購買層を見い出すのか」 「これ以上何に係る経費を削減するのか」 こう言った問題にばかり頭を抱える経営者には、決して「見えない問題」が存在する。 重ねて言うが、現在は「情報が経済を凌駕する」時代である。これが何を意味するか?つまり情報が足りない大規模店鋪は経済的成功を収める事ができなくなるのだ。ではここで言う「情報」とは何であるか? 結局のところコストや利潤に付きまとう「金銭的情報」は、これは「消費者にベクトルを向けた情報」であって「企業的情報」では無い事に気付かなければ、企業存続は危うい。「金銭的情報」は純粋に企業に経済活動に貢献する情報であって、それを凌駕する情報では無いのだ。経済活動を凌駕する情報とは「経済的貢献とは無関係でありながら、それをないがしろにすれば経済効果に悪影響を及ぼす」といった、一見矛盾する存在価値を持つもので無くてはいけない。 純粋なる「企業的情報」とは、 そこで働く人間の心理的情報である。 --------------------------------------------- こうして大規模店鋪の衰退などと書き連ねると、まるで社会全体の経済活動の衰退のように思われがちだが、私はあくまで「大規模店鋪という形態の衰退のみを」論じている事を忘れないで欲しい。実質上に書いてきた事柄は、大規模店鋪以外の商業形態にはあまり当てはまる事では無い(一部のサービス業界も価格破壊による業界の自滅に足を踏み込もうとはしているが)のである。 少し考えれば分かるのだが、消費者の「購買意欲」=「積極的である受動性」の触発は「心理的問題」である。ならばそこには「心理的回答」が存在しなければならない。心理的問題に回答を与えられるのは人間の動きに他ならず、その人間とは言うまでも無く「そこで働く人間」である。 「現場の人間の魅力で売る」のが、正しい「購買意欲上昇」の回答なのだ。 大規模店鋪以外の商業形態にはあまり当てはまる事では無いと言ったのはそういう意味である。同じ大規模店鋪でもサービス業の代表であるホテル業界を考えれば、その回答は安易に想像がつく。十分に訓練された優秀なスタッフのサービスに対して値段を値切る客などほとんどいない。これは他の業界でも同じ事である。十分な技術、現場の人間の販売力、人柄。そういったものが本来「商品やサービスへの顕在的需要」以上の「潜在的需要」を呼び起こすのは、これは太古の昔からの商売の鉄則であったはずなのだ。 現在の「大規模小売店鋪」は、その面を以て「極めて特殊な営業形態」なのである。 ここに気付かなければ「なぜ衰退が進むのか」の理由すら把握出来ずに終わる。 現場の人間の「心理的な熟練度の高さ」が「購買意欲」を上昇させる。だからすべての店鋪には「そこで働く人間の気配」が存在しなければならない。その気配、雰囲気に消費者の「あう/あわない」が存在し、そこで始めて購買店鋪の「選択の余地」が生じる。売っている商品が同じなら「あの店主の店で買おうか」と心理的動きが生じるのは、思えば私達の日常のはずであった。 その「日常的心理」が不在しているのが「大規模小売店鋪」なのだ。そもそも「商品コストを下げた状態で安価で売り出す」現在の大規模店の商法には矛盾が存在する。いわゆる「価格破壊」という現象がそれに当り、本来ある一定の価値を持った商品を「不当に高く売り付ける」行いは商業原則に反するが、それと同じように「不当に安くする事」自体も天秤を傾かせる行いなのである。商品やサービスには「社会的適正値」というものが存在し、そのバランスを保つ事によって社会は健全に稼動するのだ。 ではなぜそのような「価格破壊」を「販売の目玉」とするような戦略が流行したのか? 先の時代が「光の時代」だったからである。 つまり「見えるもの」を優先したのだ。 確かに「営業が達者であれば」「接待が丁寧であれば」「人柄が魅力的であれば」、その店鋪は繁昌する「かもしれない」。その「かもしれない」を嫌い「低コスト化によって利益率を上げ、実質的目標数値を見込める」はっきりとした「数字の見える戦略」に切り替えたのが「大規模小売店鋪」の形態の持つ「本質」なのだ。店の大きさでは無く、その「経営戦略の視点」がそもそも既存の商売とはかけ離れているのである。 地元に存在する大規模店を思い浮かべれば分かる事で、確かに常日頃使っていれば「レジのお姉さん」の顔ぐらいは思い出すかも知れないが、その「店が誰の雰囲気を持っているか」を思い浮かべるのは困難なはずである。店は完全に「無個性」で、そしてそれは他の業種では「考えられない」事なのだ。 本来「お店(おたな)」と言われる老舗の店先には「番頭」という「業務のベテラン」が存在するのが当たり前の小売店の形態であった。これは客に対し「人で売る」商売原則に則った方法で、現在でも変わる事は無い。それを無理矢理変えて「番頭不在」にしたのが「大規模小売店鋪」の経営方法であった。そこにはずらりとならんだレジとカートと商品のみを用意し、人間は用意されていない。資本主義・合理主義から生まれた「顕在的購買意欲を極限まで引き出す」方式として採用された「価格の破壊」と「商品陳列」ではあったのだが、すでに光の時代が終わった今、その方法は通用しなくなりつつある。「顕在性は有限であるが潜在性は無限である」人間の心理的側面が、この方式では完全に無視されてしまった。 この「闇の時代」、顕在意識に働きかける「価格破壊」や「豊富な商品情報」という合理的手段は、徐々にその効果を発揮しなくなっていく。ここで企業主が本当に考えなくてはならないのは「現場で働く人間の質の向上」なのだ。人は人に引き寄せられて物を買うようになり、繁昌する店鋪も人で決まる。 それは「見えない」。 数字だけを見て、コストパフォーマンスの向上のみに奔走し、他店より安く、さらに安くと言った不毛な価格競争に走るだけの経営者は、自らの戦略のどこが間違っているのかすら分からぬまま、じりじりと追い詰められていく事になるのが平成の世の中である。 分からぬのも当然であろう、決して間違ってはいないのだから。ただ、今の時期は通用しないと言うだけの話である。昭和の時代に生まれたこの「量販体系」は、これもまた「時代の種子」であり「方法論」であるから「決して間違ってはいない」。そこに古くからの体系である「人的魅力」を融合させるのが、これからの経営者の急務なのだ。 「正しい行いでも、蒔く時期を間違えれば芽は出ない」という考えは、 これもまた社会に反映する「魔術的考察」である。 ユウラ |