![]() 時代は、同じ過程を繰り返している。さながら生き物の生育のように。 昭和の30年代から40年代にかけては、現実の世界においての「核(コア)の形成期」であった。首都東京を始めとして、各都市の発達と共に主要幹線の整備が進み、人は集団形成の為の「意志伝達機能」のストレスを小さくしていった。インターネットの世界も例外ではない。 人間が集団として機能するためには、「圏(エリア)」や「場(フィールド)」、そして「核(コア)」の形成は不可欠なのだ。これらが実体を持たない「渾沌(カオス)」の状態では、様々な形式、様式は波に浮かぶ泡沫のように産まれては消え、産まれては消えて淘汰されていく。最終的に不特定多数に支持された「核」が、まずは「場形成の第一段階」の「中心」として機能する。 これが「Yahoo」を始めとする「企業体検索エンジン」と「各種プロバイダ」である。よってあれらは「ネット的な意味」において「企業」と見るのではなく「自治体」と見るのが正しい。「Yahoo Japan」のトップページが瞬間最大1億PVを記録した事を、例えば「他の企業体」が「入店者数」と勘違いして「アクセス史上主義」に陥った事に、企業体の「ネット進出失敗」の第一原因がある。 「情報が経済に貢献する」と勘違いした結果なのだ。 繰り返すが、この「夜の時代」にはそういう事は起こり得ない。 「情報は、あくまで経済を凌駕する」のが正しい。 経済人は、まずここの認識をしっかり持たなければいけない。 では「凌駕する」とは、いったいどのような現象なのか? それはバブル期までの「昼の時代」の情報が「どのようであったか」を思い出せば、簡単に解ける問題である。あの時代、我々は確かに情報を「一方的に受け取っていた」はずなのだ。それは大正以前に我々が「思想を一方的に受け取っていた事実」とリンクする。大正デモクラシーの流れは「思想発表の垣根が取り払われた流れ」であったはずだ。それを危惧した国家が「思想統制」に向かったのが、あの時代の「夜」であった。 それを鑑みれば、つまり今回の夜は「情報の発信の垣根が取り払われる時代」なのだ。戦後民主主義の「昼の時代」において、情報の発信は「一部のメディア」に独占され、そこから発信される情報は当然のごとく「間違いのない真実」として受け止められた。「情報」に「発信元の差」による「ステイタス」が附随していたのだ。そしてその「ステイタス」は「経済に貢献するように」活用されていた。これが昭和の情報体系である。広告は洗練され、多大な費用を必要とし、定期的にそれを行える企業は商品の印象を「イメージ優先」で定着する事に成功した。 そしてこの「ステイタス」=「情報における付加価値」を「個人レベルで導入できる時代」が、平成の「夜の時代」なのだ。今や「個人のサイトマスター」であろうと「有名企業のホームページ」に勝るとも劣らない、洗練されたサイトを運営する事も可能である。それは「全き努力のみにて実現する」。資本力の差は、そこではすでに意味を成さない。さらに考えを先に進めれば「企業体検索エンジン」が「自治体」としてネットの世界で「核」を形成出来るという事は、 個人が「自治体」を形成出来る可能性もあるという事だ。 そして今日、ネットの世界ではそれは「当たり前の事」となっている。事実公共団体の運営するサイトのPVと個人の運営する有名サイトのPVの差を見れば歴然である。ネットの世界では「より多く、より良質な情報を提供するサイト」が当たり前のように生き残る。 やがてこれは「魔術的リンク」によって現実の世界にも反映する事となる。 ネットの世界は広大な「実験場」なのだ。 では現実の世界において、いったい何が起こるのか? バブル崩壊から連続した流れ、ネットの世界の興隆を見るにつけ、 そこには暗示的であれ「答え」が提示されている。 ---『1』「ネームバリューの崩壊」--- 国家元首から公共団体、大企業、有名人、文化人、芸能や芸術に至るまで、「名前や職種に附随するステイタス」は、ことごとく崩壊する。今回の平成不況の根本的な原因はここにある。全てはそこに因果を発するのだ。 企業は「良いものを作る」ものが残される。 政治は「正しい事を言う」ものが残される。 俳優は「お客を楽しませ」、映画は「人を感動させる」ものが残される。 すべては「当たり前の事」として帰結する。 逆に言えば、これからの時代は「判断を依存できない」時代でもある。すべての「良否」の判断は「自己責任」であり「判断材料」としての「知名度」は意味を成さなくなる。 それに気付かず旧態通りに名刺交換を重ね、膝を突き合わせてe-コマ−ス云々を語り合っている自称「二代目」連中は、ここで本当に目を覚まさなければ「引き継いだ暖簾」すら失う怖れがある。もはや先代が築き上げた「ネームバリュー」に頼ったままでネット進出など考えている場合ではないのだ。 ここで本当に行なわなければならないのは「商品開発、改良、見直し」である。利潤追求の為どこかで「手を抜き」その埋め合わせに「広告で知名度を上げる」方法は、平成の世界では通用しなくなる。もはや消費者は「情報を自由に選択する手段」を手に入れつつあり、その中には「真実」も「噂」も「煽動」も「中傷」も存在する。その分野において確実に「良いものを提供し」「正当に努力する」企業こそ「正当な評価」を得るのが平成の世界である。 つまり「実力主義」の復活である。ここで言う「実力」とは「企業体の提供する商品及びサービスそのものに内在する実力」であって、決して「その宣伝戦略に有名人を起用出来る」とか「ローラー作戦的に雑多な広告媒体を利用して認知度を上げる」といった「認知度優先的」な実力ではない。 全てはその商品、サービスの「社会的貢献度」の大小である。 情報が「抵抗なく行き渡る社会」においては、全ての人間が「天秤の錘を持つ」時代となるのだ。各々が独自の価値観を持ち、それに従って行動する。 だから極めて「流行は作りにくくなる」。 では「広告的戦略」はこれからの時代は無意味なものとなるのか? 否である。それとは全く逆の現象が、供給側に「ある負担」を強いる事になる。 ---『2』「暗示性の重視」--- 商品の認知度と言うものは、全く無視出来るものでは無い。 これは世界に「売買」という概念が産まれた瞬間からの「種子」である。 よって広告戦略もまた、全く無視出来るものでは無い。ただ現在までの商品展開の為の広告戦略には、「コストパフォーマンス」という「足枷」が存在した。粗利10円のものを1万個完売すれば、実利益は10万であるのだが、この商品に対する広告費を10万以上かけてしまえば「赤字」であるのは当然だ。しかしこれからの企業は「それを行なわなければならないであろう」事業の転換を求められる。 広告が「失敗」か「成功」かに「二極分化」するのだ。だからもちろん「金をかければ良い」というものでも無い。優れたアイディアにて制作されたCFはそのものが「情報の小作品」として世間一般に広く認知され、物品の認知度を高める。 だがこれからの消費者は「必要で無ければ買わない」スタンスを維持するので、物品の認知度=利潤の回収率にそのまま結びつくわけでは無い。「知名度」=「情報」は「経済的利益に貢献しない」のだ。これは『1』に書いた通りである。これが何を意味するか。つまり期間限定のセールやイベント等の「販売促進」が意味を成さなくなっていくのである。消費者は「単に安いからと言って」「単にサービスが附随しているからと言って」ものを買うことはしなくなる。あくまで買うのは「必要な時」に限り、そしてその「必要な時」に「どの商品の名を思い出すか」という事の為に「広告」が必要となるのだ。 よって広告は「暗示性」を重視されるようになる。 逆に言えば「明示性」は広告として「通用しなくなる」のだ。 夜の時代だからである。夜の生き物が「夜行性」であるのと同じ理屈である。「昼の時代」の広告形態は通用しないのだ。例えば有名新聞に挟み込まれ10万件の家庭に配付された大企業のチラシは、そのデザインやコピーが「文化的」でなければ、一小店舗の手書きのチラシと比べて効果は全く変わらない。逆に考えればそういった小売店鋪の1ホームページ、一枚のチラシが「十分に文化的でありさえすれば」それは大企業の潤沢な資本に裏付けられた営業戦略に対抗しうる場面も多くある。 そういう時代になる。この結論には、しかしあなたは納得しかねるかもしれない。現実として、やはり大きな店鋪は土曜日曜になれば家族連れで混雑し、大いに賑わっているかのように見えるからである。 だが何度も繰り返すことだが、これからの時代は、全ては「見えない」。 見ようと努力しないものには、見えない。情報はすべて「自己責任」において取得されなければいけない。ネットの世界と現実の世界に見える「リンク」に気付きさえすれば、それらはあなたの目の前に「来るべき未来の様相」を、矛盾するようだが「暗示的に且つ明確に」呈示する。 次回は、情報のボーダーが取り払われることによって生じる、 「大規模小売店鋪の衰退」に言及してみよう。 ユウラ |