![]() さて前回私は、この社会が「ゆっくりと死ぬ」だの「突然死を迎える」だの、まるで「滅びが来るような」書き方をしたので若干誤解を招いたかも知れない。別に「現在の経済体系が終焉を迎える」などというつもりはないのだ。ただそろそろ「軟着陸」しなければならない時期に来ているのでは無いかとは思っている。 社会にも「階梯」が存在するはずだからである。 結局考えてみれば復興の20世紀後半は「加速の社会」であった。企業の武器は第一に「スピード」であり、「他社よりも早く開発し」「早く商品を定着させ」「早く利潤を回収する」ことが企業のパワーに繋がっていたのは事実で、ただ開発も販売も「時間的限界」があるので、人々は寝食を忘れて労働に励み、結果この国は奇跡的な復興を遂げた。それは世界が認める事実である。 これを階梯に当てはめれば、いわゆるバブルの弾けた「平成不況」は「段階の帰結」としては当然の結果で、正直言えば昭和天皇の崩御の際「ああ、流れが変わるな」と私は肌で感じていた。魔術的に考えれば、これはなんの矛盾も無い。その社会の「象徴」が失われた段階で、その社会そのものが「失われる」という「象徴のリンク」は、魔術的思考ではごく日常の事だからだ。別に魔術を持ち出さなくとも、直感の冴えている企業主ならばあの時点ではっきりと「時代の動点」を意識したはずなのだ。意地の悪い言い方をすればそういった「経済的牽引力を持つ企業」が「動点を意識した段階」がそもそも「動点」としての始まりで、あとはちょっとしたはずみで簡単に社会は動く。事実、平成元年から確か2〜3年後に「バブル崩壊」は始まったと、私の記憶にも残っている。 当時20代前半の何の背景も持たぬ若造が直感として認識できた事を、前線で活躍してきた企業人達が認識できなかったはずもなかろうと思う。それなのに相次ぐ大企業の倒産や財政的破綻が訪れた背景には、一体何があったのだろうか? これを結論すれば、つまりバブルが「開花」で破綻が「結実」と言う事だ。 ◇◇◇ はらはらと散る桜も、ぽとりと落ちる椿もその終りは様々であるが、結実に至ってはその花びらの美しさまでは「持ってはいけぬ」のが自然のあらましである。その自然の有り様には何ら疑問を持たぬ我々が自らの社会の「散花」に向かい合う時、それを単なる「波の揺らぎ」として捉える事しか出来ず「いつかは夜も終わるだろう」と楽観し、対応が後手後手に回った事こそ不況の悪化の要因であったと私は思う。とは言っても確かに私も当時は「流れが変わる直感」はあったが、では「何がどうなるのか」と聞かれたら返答に窮したのは間違いない事実で、それだけ「未来予測」は難しい。 だが一流の総合研究所や官僚に至るまで「あの時点での」未来予測が、 困難を極めたのは、なぜか? 答えは至極明瞭で、つまり「判断材料が皆無」だったのだ。 戦後復興期から高度経済成長、平成バブル崩壊から先は「判断に必要な統計が存在しない」。この時点を例えば「岩戸」や「神武」の景気回復と同等に考えるのは全く無意味である。あれは平成までの運命の「中間点」であって一つのサイクルの「終着点」ではない。しかし今回の「平成不況」は「終着点」なのだ。この先は「新たな歴史の始まり」なのだから、終戦からのいわゆる「時間を軸とした統計」は全く通用しない。 当時のメディアに出てくる知識人の一貫した意見は「今までの方法論が通用しない」と言うものであったが、それはむしろ認識が逆である。当節の流行にそった「一時的な方法論」は枝葉末節として確かに通用しないものもあっただろうが、それを「歴史の転換」とごっちゃにして論じるべきではない。「方法論」は「種子」として残ったはずなのだ。それは今でも通用するものが多くある。これをすべて否定するようでは手足が竦んで何も出来ないし、そもそも経済の復興がその主幹であったこれまでの「国の成長」をすら否定するようなものなのだから、大衆の面前で展開する理屈ではない。認識が逆と言うのは「時代にあわせて方法論を選択すべき」なのではなくて「今まで培って来た方法論の応用を試される時がきている」という意味である。 「発芽」の時期なのだ。 新しい苗を植えて育てる時期が来ているのだ。当然発芽したばかりの歴史なので体力はない。その体力の無さを「終焉の続き」と勘違いしている部分に根本的な誤りがある。 この時期「この不況がいつ終わるのだろう」といってじっと身を潜めているのは全く的外れな行動で、芽が出たばかりの桜の苗に向かって「来年の春には満開の花を」と言って待っているようなものである。よって「不況が終わるまで」体力をもたせるために「人員や経費の削減」のみに汲々としたところで結果は出ない。本来新しい芽が出たばかりの歴史に対しては「もっと忙しく世話をしなければいけない」のが当然で、しかし苗はデリケートなのでその世話に「慎重さが必要」というだけの話なのだ。 魔術的思考に話を戻せば昭和天皇の崩御と前後してベルリンの壁の崩壊、旧ソ連の解体と歴史は大きく動いている。それをただただ「対岸の火事」と捉えるだけでは魔術的には不毛である。他所の国が大きな転機を同時期に迎えている場面では、この国も同じだけの大きな試練を迎えていると言う認識が「魔術的リンク」であり、今回の日本の試練のもっとも特異な点は、 終戦と違い「それが目に見えない」という事だ。 終戦は「目に見える動点」だった。基本的体系や法律、日常の生活基盤に至るまで完全に「切り替わった現実」をまざまざと「見せつけられた」事に「救い」があった。その意味でこの国は本当に魔術的に「護られた国」である。なぜなら仮に現在のような「目に見えない動点」というものが全ての文明の過渡期に存在するものであるとしたら、あの「終戦の動点」はただ一つだけ、我々に「時間を軸とした指標」を与えてくれているからだ。 それは「不況が来年どうなるか」「再来年どうなるか」という短期的予測では無く、今回の平成からの「歴史の発芽」が「開花」するまでには、少なくとも40〜50年の時間が必要であるという「指標」である。終戦の動点が昭和20年、高度経済成長が30年代であった事を思うと、現在が平成14年なので「初期的混乱期」は既に抜けていなければならない。もうスパンの最初の10年は「到達している」のだ。 だからこの時点で「成長の波」「体力」を確保していない企業は、本当に急がなければならない。「蓄積された知識や技術」を「今回の歴史の流れのために応用し」「生育期を迎える万全の体制」が出来上がっていなければならない。事ここに至って今だに「不況だからねぇ今は」などと愚痴をこぼしているようなトップのいる会社は、運命から何も学んでいない。早々に見切りをつける方が賢明である。 次の10年は「初期的混乱」から「成長過程での混乱」への移行が行なわれる。昭和の30年代と同じ理屈である。それを思えば90年代から現在までの「IT産業/インターネットの普及」と30年代の「主要幹線の充実」には「運命的リンク」を私は感じる。経路の充実はすでに完成期に向かい、取り引きされる商品が「物品」か「情報」かという違いしか、そこには見えない。若干今回の歴史の動きが早いのは、それは「学びゆえ」である。社会自体は学びを実践しているのだ。よってこれからの10年の動きも若干早い。だがそれは必ず昭和の経済復興の流れに似ているはずで、ではどうなるのかを具体的に述べよと言われても私は経済が専門では無いのでどうとも言えない。 それではしかしさすがに無責任であるので、 魔術師としての観点からヒントを与えると、 平成の運命は、昭和の運命と「極めて似ているが」「全く違うように見える」。なぜかといえば「全く違う部分だけが人々に取りざたされ」、「極めて似ている部分は巧妙に隠される」からである。 別に特定個人が隠すのでは無い。運命が隠すのだ。 そして多くの人(とも限らない)が「振り返って始めて気付く」。 多くの人に魔術的「リンク」という考え方が無いからである。それぞれの時代の突出した「事象」に関連付けをする訓練が出来ていないのだ。こうして考えれば「企業主」には「オカルト的能力」というのは必要である。それは思考を「映像」に切り替え、未来をおおむね見当はずれでない方向へ予測する。 「オカルト的」という言い方にどうしても抵抗があるのなら、 「直感的」と言っても良い。 「直感的に動ける企業」は、いつの時代も強い。 ユウラ |