![]() 智に働けば角が立つ。 情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 兎角に人の世は住みにくい。 漱石の「草枕」の冒頭である。小説を読んだ事はなくとも、この一節は聞き覚えがあるという人は多い。人の世の有り様を平易な四行でさらりと詠うこの冒頭は、さすが漱石の筆力といったところであろうか、幾つになっても聞けば頷く名言である。 まぁこういったものを「魔術的思考」云々と重ねて論じるのもいささか野暮な話なのだが、現実社会は「不均衡な力」に満ちている。その「不均衡」「無常感」の中に「願望」を持って生きる我々の日常にこそ「憧憬」や「幽玄」を感じるという「東洋的感性」は、魔術においては極めて有効な精神的浄化に通じるのであろう、近代における様々な魔術師達もこういった東洋的感性、感覚の磨き方を魔術に取り入れていった。クロウリーが占術として最終的に選んだのが「易学」であるのは有名な話だ。 結局のところ前回書いた「願望が完全に実現する事はない」という「峻厳の教え」と「罪ある手段でも願望はおおむね否定されない」という「慈悲の教え」の統合を思えば、これはいわゆる「大観」「小観」「諦観」「達観」を含めた「観自在」から「観世音」に通じる「菩薩」の教えであり、例えばそこでこの世を「傍観」してしまうのみなら単なる「シニカリズム」で終わってしまうところを、「こころに熱を持たせ続ける」事を忘れさせない「バランス感覚」こそ「魔術」の本道なのかも知れない。 ただ振り返って見れば終戦から今日までの20世紀後半の流れは、完全に「峻厳の教えを置いてきた」発展の連続であった。 今ですら死語になっている「エコノミック=アニマル」という言葉だが、現実の企業体や社会のあり方が当時とどのくらい変わっているかといえば、私は疑問を感じざるを得ない。「天秤を倒す事のなかった」いわゆる「老舗」と言われる商店が厳しいながらも細々と商売を営む横で、数々の大店鋪、大企業が産まれては消えていった現実を見るに付け、「慈悲の教えに甘え過ぎた」近代社会の矛盾を思うのは私だけだろうか?確かに「罪ある手段でも願望はおおむね否定されない」という教えは「資本主義」にとってこの上もないバックボーンとなるのは事実だが、それも限度がある。 それぞれの企業の努力を「罪」とひと括りにするつもりはないが、例えば人海戦術や潤沢な資金を利用しての「ばらまき的な営業戦略」を単に生態系の「弱肉強食」の理屈とリンクさせて論じる企業主は今でも見られるが(もちろん彼等はマスメディアの前でそのような理屈を展開したりはしない。たいていは「深夜の料亭」での酒の話である。)自らの「暴走行為」を正当化すると言うのであれば「強者はいたずらに弱者を駆逐しない」という自然界の真理に対して、彼等は目を背けるべきではない。アフリカのサバンナで現在もライオンとインパラが共存しているのは、単にライオンの胃袋がインパラを食い尽くすほど巨大ではないからだ。強者には強者の「社会的立場」と言うものが存在し、それを比較的理解している企業が古くから存在する「パワーブランド」なのだと私は思う。 彼等は「作り過ぎる事」「売り過ぎる事」「利益を上げ過ぎる事」の弊害を熟知している。自社の株価の動向にすら興味があるのかないのか疑問である。これはある意味当たり前の事で、順調に発展した企業が対象としているマーケットが「需要と供給の関係において飽和状態」に達するのはその環境に居を構える企業に取っては「部分的成功」なのだから、この時点から「利潤が横ばいに入る」のは「安定」ではあっても決して「企業努力の不足」ではない。そもそもマーケットが限定的なので「飽和する」という現象自体、販売する企業体に責任はない。中学生でも分かる理屈である。 それ以上の供給を求めるならどうしても「市場開拓」に乗り出さねばならない。「支店・支社」の立地を検討しなければならない。新たな環境に乗り出したその結果は「大いに成功」を収めるかも知れないし「撤退を余儀無く」されるかもしれない。ただ「地球は閉じている」というグローバルな視点を持ち出すまでもなく、単に「独占禁止法」によってすら「利潤の追求」は限界を迎える時が来るのだ。企業の成績は無限に「右上がりではない」。 これは「設立の時点」で分かっている理屈である。 つまり最初から「不均衡なちから」なのだ。 「不均衡」は「無限を保証しない」。 「不均衡な成功」が「均衡を保つ」ためには「その成功が時間的に有限でなければならない」。 これは前回書いた通りである。 社会通念に照らし合わせても、この真理は何ら色褪せる事はない。 もちろん本人を含む従業員の生活の保証は大前提なのだから「利潤追求」を一義的に置くなと言う訳ではないが、では設立の際の「企業理念」が単なる「建て前」で通し切る事ができるかと言えば、企業は結局それは出来ないのだ。「社会貢献」「供給の安定」といった「社会的立場」を本心から追わねばならない段階と言うのが、成長した企業の「次の階梯」としてやがてやってくる時期はある。もともとそんなつもりも無く「儲かるために」設立すると言うのならば「儲かった時点で会社をたたむ度量の広さ」を、設立者は持っていなければいけない。 ただそれを許さないのが「投資家」で、しかし昔はそうでは無かった。ロンドンやアメリカウォール街の古き投資家達は「社会的立場」に立つべき大きさまで発展した企業の「その後のあり方」には極めて寛容で、安定が信頼であったはずなのだ。それがいつからか「安定株」は敬遠の対象となり「変動の激しい株」にやみくもに投資する者が増えてきたために若き企業主が上に書いたような「弱肉強食」の理屈に溺れて暴走する。 「理論」があっても「経験」がなければ失敗する前に、そもそも 「理論」があっても「理念」がなければ企業はどうにでも振り回されてしまう。 世界的企業までに発展する会社・パワーブランドのトップに「技術者肌・学者肌」が多いのは、その辺に理由があるのかも知れない。「理念」にそぐわない「利潤追求」は簡単に「切って捨てる」だけの潔さがあるのだろう。 長々と書いてきたが結局何が言いたいかといえば、結局は社会経済のあり方も、 「利潤追求」という「小観」と、 「理念追求」という「大観」のバランスだという事だ。 現在はこのバランスの一つの方法として「NPO法人」も林立しているが、ここでも単に「小観」に傾けば「ネズミ講紛い」になるし「大観」に傾けば「組織運営」は破綻する。「現実」と「理想」を相反するものとして考えるので無く、各々の実現に「向いている時期」を考える事からが「天秤の均衡」の出発点である。 「時期」を考察できないものは「目の前の幸福」しか追えない。 なにも難しい結論では無い。冒頭に書いた漱石では無いが、我々はもともとそういった「無常感」は本能として持っている。それを経済原則に当てはめるのが単なる「感情論にしか過ぎない」と言われて、排除され続けた事に現在の社会の矛盾がある。しかしおそらくは現代においても「おおむね成功を収めた人物」は、こういった「無常感」に目をつぶらなかったから成功したのだと思う。 その意味では彼等の方こそ「リアリスト」だったのだ。 血気盛んな起業者がこう言った文章を読めば「そんな考えでは、社会はゆっくりと死んでしまう」と異を唱えるのが目に見えるようだが、「ゆっくりと死ぬ」のを避けているようであれば、 何の事は無い、「突然死」を迎えるだけの話である。 ユウラ |