![]() さて「魔術、魔術」とここまで書き連ねてきたのだが、そもそも「魔術」の目的とは何であるのだろうか? 単なる「目的達成」のための「古典的手段」として、魔術は存在しているのか? ある意味これは正しい。 魔術を知るものと知らないものでは、その「願望達成の確率」は天と地ほどの差が生じると言ったら、あなたは信じるだろうか? だがこれは「統計的現実」である。魔術的発想を持って恋愛を行なうものは通常より遥かに相手の愛情を獲得する事ができるし、極端な話魔術を知るものは「巨万の富を得る」事すら可能である。決してこれは大袈裟な話ではなく、実際にカバラを生活の規範、ビジネスの規範に置くユダヤ系の資本の強大さは、その「魔術的考察の深淵」を知らぬものには真似の出来ないものである。 ただ魔術には一つだけ「条件」がある。 それは「手段が正当であるか否か」という、それだけである。 逆に言えば魔術によって何かを欲する者は、必ず魔術によってその「願望を試される」のだ。 --『1』天秤の均衡-- 「より多くの社会的成功」を「魔術的に」望む者には「より多くの社会的成功を得る機会」のみが与えられる。その機会を生かせるかどうかは本人の努力次第である。突然入ってきた高額の仕事を完了するために寝食を削って働かなければいけない場面も出てこよう。本人が「階段を昇るに値する人物かどうか」が試される。これこそ「魔術」である。 「魔術」は運命の輪を回し、機会を呼び込み、試練を与え、本人を試す。それに打ち勝つ者には十分な祝福を用意する。すべては「天秤」によって測られ、不正は行なわれない。 「魔術の基本」は「天秤の均衡」にある。 「欲望」はいかなるものであれ「全き正当な努力」によって「実現」する。 「欲望」自体に「正当・不当」は存在しない。「憎いアイツを殺したい」というのは、これは「欲望」ではなく「憎悪」である。「楽して金を儲けたい」というのは「手段が不当」である。ただただ単純に「異性にもてたい」「お金持ちになりたい」「有名になりたい」というような願望には、「魔術」は驚異的な効果を発揮する。願望の「俗っぽさ」とか本人の「頭の良し悪し」「肉体的ハンディ」などは一切関係ない。そんな「人間的感覚」での「束縛」など簡単に消し飛ばしてしまう強烈さを「魔術」は秘めている。 このようなものがなぜ存在するかと言うと、これは社会そのものの「天秤の均衡」を保つためで、純粋に欲望を求める者にはその機会が与えられるのが「自然」であるからだ。 だが現在の世の中は「不均衡」なので、「愛しあうべき男女に邪魔が入ったり」「不当に富を貯えるものがいたり」「冤罪によって投獄されたり」「浅はかな理由で人が殺しあったり」する。「欲望の達成」に「不当な手段」が「知恵」の衣を被り「大っぴらに取り引き」され、時に「書物」として「公開」される。「公開」された時は「すでに役に立たなくなった」ものを「撒き餌」として「使用されている」事に理解及ばぬ者がそれに殺到し「追従を良しとする過った社会現象」を起こし「新しい網」にかかる。 (ここで勘違いすべきで無いのは、知恵にも「正当不当の別」があるということだ。私は、いわゆる「経費削減」とか「技術開発」とか言う手段を「魔術と比較して一様に浅知恵である」と論じているのでは無い。それは最初に書いた「機会を与えられた際の努力の一環」として「天秤に乗せられる」素材である。その努力の中に例えば「原材料の表示に嘘がある」とか「過剰な広告を行なう」といった内容が含まれているのなら、その時は「天秤」は簡単に「嘘を見抜き」「不等な手段としての烙印」を押すであろう。) だがそれも長くは続かない。 天には「裁判官」は不在である。神はそのような「些細な事」は「天秤にまかせるのみ」であるから、天の裁判にはいわゆる「恩情」や「情状酌量」は存在しない。身勝手な理屈や言い逃れは全く通用せず、不均衡な力、不均衡な知恵はただただ「天秤を傾かせ」、やがては「失敗」や「破滅」を運び込む。そこに(天の時間として)わずかの「猶予」が存在するのみである。 その意味では、この世界は「完全に平等」である。 不平等に見えるのは「その瞬間だけ」を比較するからだ。 「不当に金を貯えた者」は「作り過ぎた敵」と「不用な金銭の管理」に忙殺される老後を送るのであるから、せめて「現在くらいは」他人より幸福そうでなければ逆に「不平等」である。「不当な方法で愛情を得た者」も同じ理屈が通用する。因果応報では無いが「裏切り」を行なった者は「裏切り」を行なった「過去」を背負う事になり、行動の可能性は急激に「制限」される。「盗み」を行なった者はその「過去」を隠す事を生涯背負わねばならない。「不当な手段」はそれを行なった時点から「罰」が始まるのだ。長き未来において「十字架を背負う」事になるのだから、悪事は成功した時点のみを見れば「幸福」を手に入れるのが「平等」ではある。 「運命の天秤」は「均衡」である。その「天秤」を傾かせない手段でありさえすれば、 いかなる欲望も達成する事は可能である。 --『2』精神の均衡-- 繰り返すが、いかなる欲望も達成する事は可能である。 そこが魔術的な考察における「二つ目の均衡」の出発となる。 「天の天秤の均衡」は目に見る事は出来ない。自らの行なった「欲望達成のための手段」が「正当であったのかどうか」という「審判」は「未来において結果として現れる」。現在においてそれが「全き正当なものかどうか」という事を、我々は把握できない。では「把握できない」からといって我々は「欲望達成のための正当な手段」は取り得ないのだろうか? 結論から言うと、これは出来ない。 我々の取る手段は「常に不当」である。 我々が「不均衡」であるからだ。「不完全」と言っても良い。 我々の現実的肉体は寿命があるので人ひとりの考察の期間は「無限では無い」。仮に考察を引き継ぐものが現れたとしても我々の「現在の言語や数理」もまた「不完全」なので「思索を完全に引き継がせる事は出来ない」。つまり我々の思索は限界があり、その限界ある我々の努力は、 出発点から「完全な正当さは得られない」事を「運命」として持っているのだ。 よって「天秤」は必ず傾く。 この事実は、『1』において私が書いた、 「いかなる欲望も達成する事は可能である」という内容と矛盾するか? 矛盾しない。「欲望の達成もまた不完全」であるからだ。 つまり我々が行使する魔術的思考によって得られた成果は、常に「不完全」なものなのだ。これは別に魔術的思考に限らない。いかなる主義主張も手段も方法論も「不均衡なもの」として「天秤を傾かせる」が、 ようはその「傾きが破綻をおかす限界までに至る」か「至らない」かの違いなのだ。 やじろべぇと同じである。 片方が仮に多少重くとも不均衡なままで釣り合いを「保つ」事は可能である。 こうして考えれば世の成功者は「おおむね」成功しているのであって「完全に成功した者」などこの世に存在しない。恋愛もそうである。魔術的思考は恋愛においても「強烈な成果」を発揮するが「我々がそれを行使する限り」その成果は「強烈であっても不完全」である。 だから魔術は「永遠は保証しない」。 魔術的成功は「永遠では無い」。世の無常はこうして作られる。いかなる成功も無常である。「天秤」を完全に釣り合わせる事が出来ないからだ。特にその無常さは「世代交代」の際に強く発現する。先ほど書いたように「我々の意思疎通の手段」は「不完全」なので「拡大解釈」や「表現の歪曲」といった「誤差」が必ず生じる。それは「時間的経過」とともに表面化し、やがて「天秤の傾き」を助長するので、傾いていたまま釣り合っていた「おおむね成功している状態」に「破綻を呼び込む」のだ。 どのような願望であっても必ず「天秤」は傾く。よって、 どのような願望であっても「完全な成功」はあり得ない。 これが「峻厳の柱」の教えである。 言い換えれば全ての願望の実現は「罪を内在する」。 しかしそれが「すぐさま破綻に結びつく訳では無い」。 これが「慈悲の柱」の教えである。 魔術は全ての願望の実現を「肯定する」。 魔術はその達成の不完全さをも「肯定する」。 こうして一見「矛盾する」内容を魔術は内包している。もともとこの矛盾が「魔力の源泉」である。魔術は矛盾を肯定し、そのまま含むので「強い」のだ。一般的思考は「矛盾を排除」しようとする点に「脆さ、危うさ」がある。 魔術はいかなる欲望も否定しない。だが完全なる成功も保証しない。 そして欲望を「否定する心」すらも「肯定する」。 だから魔術には「教理と実践」のみが存在し「議論」は存在しない。 魔術において「議論」は無意味なのだ。 「望む者はただただ実践すれば良い」のが「魔術」である。 --------------------------------------------------------- こうして考えていくと、魔術的思考によって成功を収めんとするものは、 いかなる願望であっても、どこまでいっても「目標を失わない」という事実に気付く。 だから計画は遠大になり、実践は謙虚となる。 計画が遠大なのは 「完全な成功はあり得ないので常に新たな目標が産まれる事を予測できる」ためであり、 実践が謙虚なのは 「欲望の実践には必ず罪を含むので天秤の不均衡を必要以上に増大させない」ためなのだ。 壮大な理想と謙虚な態度を合わせ持つのが「魔術師」なのだ。 その姿は、強大な牙を持つにも関わらずいたずらに吠える事の無い、 「眠れる獅子」に、似ている。 そういう者を安易に叩き起こす事のなきように。 ユウラ |