さて、霊的な治癒に関して私が「陰陽の法則を理解していなければ他人の治癒には危険を伴う」と書いたのは、じつは現在における
「霊的治癒」のほとんどの認識が「病人に対する気力の追加」と考えられている事に端を発する。鈍痛や凝り、気の澱みを治癒するために「そこに手をかざして」気力を流し込むのだ。普通に考えて、この行為が「治癒における妥当な順番を得ていない事」は理解できることがらである。つまり私達が普段、ある部位が痛みを伴うからといって、或いはそこが「膿み、腫上がっている」からといって、殺菌も消毒も無しに「いきなりそこに包帯や添え木を巻き付ける」という事をするのか、という理屈である。

霊的治癒にも理屈があり、妥当な順番がある。治癒の最初は
内的にも外的にも共通して「毒抜き」が必要であり、霊的な治癒の施術者は「気力を分け与える事」より先に、その手のひらで「相手の悪い気を抜く作業」が行えなければならないのだ。この場合での「悪い気」とは「なにか変質している」という意味ではなく、むしろそこに留まったまま「不活発になっている本人の気そのもの」である。
例えば(どちらかといえば)一般的な霊的治癒の場面で問題になる「肩凝りや腰痛、筋肉痛」などには「陰陽の二種の性質」があり、この疾病が長時間の体勢維持、本人の骨格の偏りを原因とする「骨の詰まり、歪み」から来ているのであれば「霊的に陰」であり「地の気質の疾病」であるから「気力の注入」はある程度効果を与えるに違いないが、逆にその部位の本質的問題が「筋肉の収縮」による「血流不全」にあるのならば「霊的に陽(本来内分泌液は水の気質で陰の気が強いが、血流だけは気質は火で陽に寄っている)」なので「吸引」を行なった方が初期的治癒には効果的である。
別の例では「眼精疲労」の際に良く「両のこめかみを指で押さえる」事を行なうが、もともと神経系/感覚器系は「風の気質(目、耳、鼻といった感覚器官が必ず二つの対になっているのは風の気質を有するからである)」が優先されるので、あの場合「指で押さえ付ける」という意識より「右から左、左から右に気を流す」事を意識して軽く両手の指で押さえた方が効果的であり、それを続けているうちに「右か左のどちらかの目」に痛みが残るのが確認できるはずである。それは本人の「利き腕」に相当する「利き目」であり、休ませるべきはその「利き目」である事が多い。風の気質の疾病は本来が「対になっているもののバランスの異常」から起こるのだ。
このように
霊的治療には「気質と陰陽の考察」は不可欠であり、また本人の優性気質が「火か水か、風か地か」によっても、その効果は相対的に変化する。

よって
霊的治療の現場では、治療に先立ってまず「医者の問診や触診」に相当する「気質鑑定」が行なわなければならない。元素の四大(地水火風)のどこに異常が生じ、どこを調整すれば良いのかを把握する必要があり、当然それに従った「カルテ」も存在する。魔術的治療は(世俗的解釈における)シャーマニズムではなく霊的な学問なのである。

しかし、これらの霊的な治癒に関することがらは現代社会において「全く」といって良いほど無視され続けてきた。

仮に人間の肉体をA、人間の霊性をA’とするならば、現代治療はB→Aという「肉体への直接的なアプローチ」である。そして霊的治療はB’→A’→Aという「人間の霊性を中継した肉体へのアプローチ」或いは「霊性そのものの治癒」である。最終的には人間の肉体へ到達する事は一緒だが、霊的治癒には表面的に「本人の霊を経由する」まわりくどさが感じられる事になる。
だがここで考えなければならないのは、
「霊そのものを治癒しなければ完治しない疾病」を本人が持っている可能性を、現代医学はまったく無視している事である。患部の外科的切除や抗生物質の投与では霊を治療する事は不可能で、肉体を修理しても修理してもまた同じ疾病が発病する、という例は現代において枚挙に暇がないほど存在する。

ただ、だんだんと現代においても「直感を信じる現場の医師たち」の中には「科学や医学ではどうしようもない『もの』が確かに在る」事に気付き始め、治療の現場に「精神性」や「環境性」、或いは患者への「自己啓発」または疾病した肉体への「自己肯定」を現場に取り入れ模索し続けている人々もいるのは確かである。が、まだまだそれはマイノリティーに過ぎず、多くの研究は個人的文献の発表に留まり、保険の適用すら難しい現状である。霊的効果は「見えない」からだ。
しかしまだこれらの医師たちが「肯定的に受け入れられていない」事実よりもさらに問題なのは、いわゆる「癒し」と銘打った一部の企業体の商品群である。こういった「精神性」を単に科学的に分析し、それに対応した「であろう」商品を次々に作り出し、世に氾濫させている企業たちは極めて罪深い業を起こしている。商品は商品であって「精神」や「神経系」は緩和できるであろうが「霊」は癒せないからである。むしろその緩和には「麻薬性」があり、それらの商品は単に「患者」を「依存症」に鞍替えさせているに過ぎない。肉体が薬物に依存する事には大きな問題があるのと同じく、霊が「精神的耽溺状態」によって「弱体化ならぬ弱霊化」する事には極めて大きな問題があるのだ。

いくら科学的分析によって「肉体と精神と感覚に有効」と証明された物質でも、それが「工業生産的人工物」である限り「霊性」は付加できない。
人工物に霊性を付加できる唯一の条件は「天然の素材で作られた手作りのもの」である事なのだ。一部の頭の堅い医師や企業人が言う「肉体は物質でしか治せない。霊など有効か無効かすら分からない」という言葉は、そのまま私達魔術師の反論に応用できる。つまり「霊は霊でしか治せない。物質など有効か無効かすら分からない」のだ。




このような議論は、しかし、もはや止めるべき時が来ている。不毛である。


我々は、もうそろそろ「世界が二つである」ことを理解し、想定しなければならない。
霊的世界と物質的世界にはそれぞれ「通用するもの」が別々に存在し、それらは「元素的考察」によって統合されるし、また統合していくべきである。

これが魔術の本来目指すべき「霊的実践」であり、なにも呪文を唱えて天界を目指したり天使と話したりする事だけが「魔術の実践」ではない、という事に、我々魔術師の側も気付かなければならない。

時期を考察しなければならない。
我々は、我々の生きている時期を、考察しなければならないのだ。

ユウラ