![]() さて随分こちら「SIDE-B」の更新も放っといてしまったが、この辺りから少しずつ「霊的な自己学習の実践」について触れていきたいと思う。あまり難解な文章は使わぬよう心掛けるつもりなので、関心のある方は、できれば試してみる事をお勧めする。 第一回は「気力における球の生成」について。 「霊性論」を購読されている方はすでに御存じであろうが、私の考える魔術の体系においては「六力(りくりき)」という「霊的な力」の概念を取り入れている。「外界の三力」が「理力/霊力/魔力」でそれに対応する「内界の三力」が「思惟力/気力/法力」であるが、この「内界」の三つの中で比較的現実社会において顕現しやすいのが「気力」なので、その測定法と簡単な活用について触れてみたい。 「気配」「雰囲気」「陽気」「陰気」「殺気」等、「気」に関することがらはすでに一般化する程「誰にでも感じ取れるちから」であり何ら「特別なもの」ではない。現代的な言い方をすれば「オーラ」などと呼ばれる場合もあるが、科学の分野においては未だ明確な測定方法が存在しないので「オカルト」に分類されている哀しさもある(おそらく微細な重力変化を測定できる機器が発明されれば「気力に関することがら」にも科学の陽が当たる事になるであろうと私は考えている)。 この気力には(気力だけでなく他の力にも該当することがらであるが)「質」と「量」があり、「質」はその人間の「精神の状態」、「量」はその人間の「身体の状態」で変化する。強烈に誰かを憎んでいる状態ならば「量は増大」するが「質は悪く」なり、風邪を引いている子供が母親に心から甘えている場面では「量は減少」しているが「質は良く」なっているはずである。量的な問題のみを考えれば、気力は普通の気圧変化のように「量の多い方」から「少ない方」に流れ込む傾向があり、質的な問題のみを考えれば「絵の具を混ぜる」感覚に近い。互いにその「質」が混ざりあうのだ。 さきほどの風邪を引いた子供と母親の例に戻れば、量的な気力の変化は「子供←母親」への一方通行になるので、母親の気力は子供に接する事によって「量的に減少」し、母親は「肉体的には疲労」する事になる。しかしその質に関して言えば「子供←→母親」間で「愛情の混合」が起こり、母子ともに気力における「愛情の質」が高まる現象が起こるので、その場全体が「家庭的雰囲気」に包まれ「精神の状態」が良好になる。「愛情」を質に含んだ「気力」は「共存の意志」を顕現させるので、多くの場面において「治癒・回復」の作用があり、この質が子供の細胞の「霊」が持つ「自己回復力」を活性化させる。よって例えばこれが「看病がめんどくさい/煩わしい/うるさい」といった母親の思考を含んだ気力の顕現であった場面においては、逆に子供の病気の回復を鈍化させる場面もあり得るので注意が必要である。こういう場面では病人の病気は治りが遅いし介護する側は肉体的にどんどん疲労していくといった「悪循環」も、普通に起こりうるのだ。 また(これは意外に感じる人が多いかも知れないが)あまり「元気な人間」が気力を用いて介護する事も、回復には好影響を与えない。元気な人間、気力の充実した人間の発している気力の質は多分に「攻撃・防御・支配・操作」といった、いわゆる「能動力」に優れているので、病人に対してはあまりに「圧倒的作用」を与えてしまうのである。食物に例えるともう何日も空腹で餓死寸前だった人間に対していきなりビーフステーキを食わせる事に該当し、これが本人に好結果を与えない事はみなさんも容易に想像できるであろう。 したがって病人の看護/介護が一般的に男性より女性が向いているのは特に「女性蔑視」に該当することがらでなく「霊的考察」においても理屈が通っているのだ。またテレビで良く見られる「気功治療」を素人目で真似して、相手の弱い部分に向かって「うんうん」唸って強い気を放射すれば、場合によっては相手の気力に「傷をつける」事にもなりかねない。気力の概念を「量だけ」でとらえ、ただ単に「量を与えれば良い」と考えると、こういった過ちを犯す可能性が高い。 さて、では実際に自分の現在持っている「気力の測定」をしてみよう。 まず軽く柔軟をして身体をほぐし(特に両腕をぷらぷらと揺すって力を抜く)、 肩や首の凝りのある人は、この時点で十分に動かして血行を良くしておく。 足を普通に開いて自然体で立ち、あまり猫背にならない、逆にあまり胸も張らない。 両方の手のひらを自分の前に差し出す。上向きで力は全く入れない。 肘は曲げておいた方が良い。指は開く。 そして深呼吸をする。胸式/腹式どちらでも良いが ここでは胸式の方が分かりやすいかも知れない。 分かる人には、この時点で手から発するちからが分かるはずである。 さてその両手の指を、親指と小指(つまり両端の二本)を残して、 人さし指/中指/薬指をくっつける。ピンと張る必要はない。 手のひらに「お盆を乗せている感覚」に近い。力は入れない。 そのまま肘を曲げて「体育の小さい前習い」のように、 みぞおちのやや前でサッカーボールを持つ感じで、 両手を互いに内側に向ける。 この状態で、しばらく深呼吸を続けると良い。全身の力は抜く。 だんだんと両手のあいだの「空気の粘度(ねばりけ)」が 上がってくるはずである。それが今あなたが触れている「気力」である。 軽く両手を左右に揺らすと「ぷよぷよした感触」が伝わるだろう。 さらに、もう少し深呼吸を続けると、 その粘度ある空気も、同じリズムで呼吸している事が分かる。 ただその呼吸は「肉体の呼吸」とは「逆」のはずだ。 肉体の胸が膨らんで「吸気」を行なえば「それ」は縮み、 逆に肉体がしぼんで「呼気」を行なえば「それ」は膨らむ。 その粘度がはっきりと分かる「両手の距離」が、 今現在のあなたの「気力の大きさ/強さ/量」である。 これによって分かるいくつかのことがらがある。 第一に、この「球」の大きさは同じ人であっても日によって異なる。大きな球を生成できる日は気力が充実した「発散系の日」であり、こういった日は体力的にも無理が効く。逆に大きな球が作れない、あるいは手に何も感じない日は「受動系の日」であるから、あまり自発的な活動には向かない。体力も続かない。ゆっくりすべき日なのである。 第二に、この球の大きさと体調が合っていない場合、特に「大きな球は作れる」のに「体調が悪い」時は要注意である。局所的かつ具体的な「疾病個所」が身体のどこかに存在する可能性があり、それは多くの場面において「治療を要するもの」である。薬を処方するなり、医者に見てもらうなりすべきなのだ。食の改善も考慮した方が良い。 第三に、この球の生成を行なった直後に「急激な眠気」が襲う場合。これは本人の気力の充実に対して「思惟力」が足りていない証拠で、多くは睡眠不足が原因である。これはまた次回に詳しく書くが、思惟力は気力がいかに充実していても、そこからは補給できない。思惟力の足りない人間は運命的な「無駄」が多くなり、偶然や予感を使いこなせなくなる。よって運勢が悪くなる。きちんと睡眠を取り、身体と精神を休めるべきである。ただこの操作を行なった後に「軽い眠気」は普通に襲ってくるので「これから出勤」という時には行なわぬ方が良い。 慣れてくればそんなに難しい事ではないので、練習されてみる事をお勧めする。 ただこれが感じられるようになったからといって、いきなり先ほど書いたような「素人考えでの治癒」は行なわぬ方が良い。この球が疾病・怪我の治癒にある程度効果を与えるのは基本的に本人の身体に限ると捉えるのが無難である。他人の身体にこの球を与えるに際しては「疾病の種類と球の性質」に関わる「陰陽」の考察が必要になってくるからだ。下手をすると相手の気を破く事もあるので、慎重に取扱うべきことがらである。 気力に限らず「霊的な力のすべて」は「対称を自分以外のもの」に向ける場面では、行使する人間の意志の善悪に関係なく「危険物扱いになる」ことは、魔術を志すものならば、しっかり肝に命じておこう。善意と同等の「知識」は常に必要であり、事故の発生原因は「悪意」より「過失」の方が多いのは、魔術に限らない世の摂理である。 ユウラ |