![]() 「おまえは女の腹から産まれたものの手にかかって死ぬことはない」 「バーナムの森が城に向かって動いてこない限りは誰もおまえを負かせない」 シェークスピアの4大悲劇の1、「マクベス」の中で魔女が彼に与えた予言の一節である。 結末はというと、魔女の予言はことごとく的中し、それでも彼はマルコムの剣によって倒される運命にあった。 このシェークスピアの「マクベス」も魔術、魔法を題材にした小説や戯曲の中では秀逸なプロットであるが、これに限らず、必ずと言って良いほど「魔法」には何らかの「代償、条件」が付加されるのは世の習いであり、それは現実においても変わらない。 運命の軌道を急激に操作するのは、それだけ危険が伴うと言う事である。 さて、こういった「運命の操作」に関しては「教理的魔術」はむしろ否定的で「実践的魔術」は肯定的立場をとっている事は、魔術を多少学ばれた方は御存知の通り。もちろんこの二つが相反すると言うのでは無く、「実践的魔術」はある意味「教理的魔術」の背後に隠されたものであって、それはもちろん「危険を伴う」からであり、よってそのマニュアルは様々な暗喩、象徴によって封印され、一定の魔術的知識を持たないものには実践不能もしくは実践しても効果を発揮しないように設定されている。 魔術には「知識的階梯」があるのだ。 では例えば、 天使や悪魔に出会うには、どの「知識的階梯」が必要であるのか? 言い換えれば、いわゆる「魔術」の「効果」を現実的に呼び出すには、どのレベルの知識が必要なのであろうか?魔術を学問として探究するものが最初にぶつかる壁が、おそらくこの辺りでは無かろうか? つまり「天使」とは「比喩」なのか「実在」なのかという疑問なのだが、 結論から言うと「天使」は「表面的には」「比喩」であり「実在」である。 「表面的には」という表現を使うのは、そもそもこの疑問を持つ段階での本人の意識レベルがまだ「表面的」であるから、このような疑問を持つというのが私の持論である。 ◇◇◇ この時点での本人の意識的レベルは、「いるなら会わせてくれ」という意味に過ぎない。つまり「感覚として認識できるのかどうか」が「実在の唯一の証拠」であり、しかし「天使」「悪魔」といった存在は「通常の五感で認識できる存在」ではありえないので、このレベルでの結論は「天使や悪魔は比喩である」としか定義する事は出来ない。 「天使」が「目に見えるもの」であるなら「ひとのこころ」も「目に見えなければおかしい」のだ。それなのに「ひとのこころ」が見えない事に疑問を持たないまま「天使が見えない」事に疑問を持つ「認識の矛盾」に気付かない状態では、魔術的知識の階梯を上がる事は出来ないと言える。逆に言えば「天使」が目に見える人物は「ひとのこころ」が目に見えても何らおかしくはない。そういったものの行なう「未来予測」は通常のそれより遥かに的中率は高いはずで、中世においては彼等こそ「予言者」「魔術師」の類いであった。しかしそこに至るには、魔法に隠されている「二つのアプローチ」をクリアしなければならない。 まず一つは以下のアプローチである。 現在において未来予測は、様々な職種に衣替えしている。世の「占師」が「心理学」を学ぶのはそういった背景もある。感覚として得られない部分を「知識」にて補完するのだ。 例えを一つあげるなら、ここに一本の「定規」がある。「定規」には「目盛り」が刻まれている。1センチ、2センチといった案配である。子供であろうが、大人であろうが、この「定規」は本人によって「測定」に使用される。しかしそれが使用されるのは「測定を必要とする時」のみである。 たとえばここに、毎日のように「測定する」人間がいるとする。それはどのような対象でも構わないが、彼は毎日の測定を繰り返すうち、やがて「定規がなくても」対象の「ある程度の長さ」は「見当がつく」ようになる。訓練を繰り返せば繰り返すほど、おおまかな「目測」の精度は高まっていくはずである。最初に普通の定規の通用しない曲線や曲面に出会った時は面喰らうかも知れないが、やがてそれも「実践の積み重ねによって」把握できるようになる。時が経てば彼は非常に誤差の少ない目測をするに至り、この時点で彼の技術は「魔法」のようになるのだ。 これが「魔法」の「心理学的アプローチ」である。このアプローチに従って考えれば、ある意味魔法と言うのは極めて「現実に即した学問」なのだ。ユングやフロイトを始めとする近代の心理学体系は、非常に精度の高い「定規」と成り得るし、それに加えて様々な「社会的通念」「良識」「思想的背景」を学びさえすれば、これはこれで立派な「占師」として通用するだけの「技術」は修得できるはずである。そしてこの状態ならば「ひとのこころが見える」状態と言っても良いのだが、 ただ、ここまでで止めてしまえば彼は相変わらず 「天使は見えないまま」という事になる。 「教理的魔術」からこの世界に足を踏み入れた者は、おそらくこの時点で最初に述べた「では天使は実在なのかどうなのか」という壁にぶつかる事になるであろう。 ところが魔術にはもう一つのアプローチがある。 言わずと知れた「オカルト的アプローチ」である。 この「オカルト的アプローチ」に「現実的な占師」が拒否反応を持つ理由の一つには、このアプローチの持つ「運命を操作する体系」を、いわゆるホグワーツの教師が行なう「傘の先から火の玉を出す」荒唐無稽な(私は嫌いではないが)ファンタジーと混同している点にもある。よってまずここで「オカルト的魔術」の効用を先に定義しておくと、 つまり「天使や悪魔を利用して運命を操作できる」事が、 はたして現実的に可能なのかどうかという一点である。 「現実的な占師」の考える「中世の予言者」は、結局は現在で言う「コンサルタント業務」に従事した職種であって、決して「ヒキガエルの干物で運命は変わらない」というのがそのスタンスである。仮に変わるとしたらそれは干物の粉末に麻薬性があり、それを当時の権力者に利用する事によって云々という「科学的考察」なのであろう。だがこういった思索からは「オカルト的アプローチ」は解けない。 なぜなら「オカルト的アプローチ」は純粋な「エネルギー論」だからである。 昨今の宗教の教理やいわゆる「超心理学」的な学問にちょくちょく登場する「エネルギー」という言葉には私はどうも抵抗があるのだが、他に妥当な言葉も見つからないので、あえて使用する事にして、まず「人里離れた山奥で魔女が燃やしたヒキガエルの干物が、王国の将来に影響を与える理由」とはなんであろうか? ここが解けないと、おそらく「天使は見えない」。 現実的には何ら「運命の連鎖や関連性」は、ここには見えない。しかしそれこそが「オカルト的アプローチ」の焦点である。じつは上記の魔女のような行動は、現在において我々は割と日常茶飯事に行なっている。 ◇◇◇ 簡単に言えばそれは「道具の使用」である。 私達が日常において、紙を切る際に鋏を使い、釘を打つ際に金槌を使い、土を掘る際にスコップを使う事と、「実践的魔術」にはそこまで本質として違いはない。ただ、原理を知らない者には「スコップ」は「知恵」として映るが「掘削機」は「怪物」として映るというだけである。 すべての機械や道具は、その原理や仕様が複雑になるにつれて「理解しがたいものとなる」。これは「魔術の世界」でも全く同じで、ようは「心理学的観点」に立った魔術は、まだ「スコップの段階」なのだ。「掘削機レベルの大規模な運命操作の作業」には「天使」や「悪魔」といった「高次のエネルギー的存在」が必要であり、ヒキガエルはそのための「スイッチ」でしかない。「ヒキガエル自体」に運命を操作する力があると考えれば天使が見えないのは、ここに理由がある。 話を戻して、それでは「天使」とはエネルギー体であるとして、そこに一定した「視覚的イメージ」があるのは何故か? 「天使が見える」というのは一体いかなる状態か? じつはここが最も大事な話なのだが、万人が天使と言う存在を同じような「視覚的イメージ」として捕らえるのは、天使が「そのような姿」をしているからではない。それは思考の順番が逆なのだ。つまり「天使とは天使らしい姿をしていなければ、エネルギーとして活用出来ない」のである。 これは例えば掘削機がクレーンと姿形が異なる事に似ている。 ある「仕事」を行なうものは、その仕事に「応じた外観」が存在する。「最初からそうあるべくしてあるのが妥当」なのであって、もともとそれは「魔術的象徴体系」に端を発している。 天使には「角があってはならない」。角がある天使は天使(としてのエネルギー体として妥当)ではなく「悪魔」としてしか「作業を行えない」だけで「クレーンには巨大で頑丈な爪がないので掘削には向かない」と言う事と同じ理屈なのだ。 ただ、同じ「掘削機」であっても若干のメーカーによる「意匠・デザインの違い」は、あっても構わない。これが「多神論」の根拠である。例えば「天使的働きをする高次のエネルギー」に遭遇した際に、各々の風土、風習によって多少の「外観の違い」は、認識として起こるであろう。その事自体は「エネルギーの発動」にはさしたる影響は及ぼさない。 しかしだからといって、では「外観などどうでも良い」と考えれば完全に「エネルギー」の意味を取り違えている。ここで言うエネルギーとは「リッタ−あたり何円」という物量的な計測は不可能で、ではどうやって計測するかと言うと、 つまりそれが「外観の違い」なのである。 運命を変えるエネルギーとは、「量」でなく「外観」が「単位」なのだ。 よって「天使が必要な仕事」には、「天使を呼び出す必要」があり、 それを「悪魔」で代行するには、単位あたりのエネルギーが「不足もしくは過剰」なのだ。どうしても量の概念が取り払えないならば「不適当」と言っても良い。 天使は裸であっても服を着ていても構わない。その服の色は白でも青でも赤でも黄色でも構わないが、黒ではいけない。黒は「一般的に」悪魔の服である。召還によって呼び出された天使が「黒い服」を着ていたなら、召還は失敗である。直ちに「退去の儀式」を行なわなければいけない。こういった「エネルギー操作の規定」は魔術においては非常に事細かく体系付けられている。その体系に乗っ取って実践が行えないのであれば、いつまでも「天使は見えない」。 「見えないからいない」のではなく「使えないから見えない」だけなのだ。 最初の疑問に戻れば、 「天使は実在するが、天使を使えないものには、天使は視覚的に存在しない」という事になる。 結局「天使や悪魔」という存在は、 魔術的実践のどの段階に本人がいるかを測定する「定規」なのだ。 心理学的見地の段階から鑑みてどう違うのかと言えば、 前者は「本人が測定する」事に対し、 後者は「本人が試されている」という違いのみである。 天使を見る「免状」を持たぬものは、天使の加護を信じる事のみが、 唯一の正しい姿勢である。これは神においても同一の真理だと、私は思うのだ。 ユウラ |