| 魔術的実践の背景 天使の存在 黒魔術の危険性 魔術師の精神構造 魔術と現実社会との対応 その1 その2 その3 その4 その5 その6 霊的実践 その1 その2 |
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| 詩 編 「宣言」 「光」 「練成」 「異人の館」 「火の試練」 「窓の数」 「路」 「黎明」 「守護者または宣言の二」 「没落」 「陰花」 「草原」 「Drama」 |
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統治する力が最初に正しく設立されなかったなら、 その国は正しく統治され得ないことを、 我々はそこから学ぶ。」 (ゾハール <ハ・イドラ・ラバ・カディシャ>) (大聖集会二十六章 エドムの諸王より) |
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| ここに書かれた短い文章の中には、ある一つの「真理」が刻み込まれている。力とは、何かを生成するために働き始めた時は、すでにその力自体の「均衡・不均衡」は決定していると言う「真理」である。 「不均衡な力」はどこまでいっても「不均衡」なままで、故にその力による「生成物」は「一時的な産物」としての限界を持ち、そこに「永続性」という「幻想」を求めるべきでは、ないのだ。 では「永遠でないもの」は「過つるもの」なのか? 否である。 「永遠でないもの」には「永遠でないもの」としての「役割」があり、それは「永遠であるもの」の「種子」として存在する。 木を生成した「否定的存在」もまた、セフィロトの生成の過程において「均衡である前のセフィラ」に「七人のエドムの王」を置き、統一を促した。諸王が滅びを迎えるのは「決められた事」であり、しかしそれでも彼等がそこに置かれるのは「必要な事」であったのだ。 振り返って現代、21世紀初頭。 我々の生活を支える様々な「不均衡な力」の限界を、今まさに我々は眼前にして、ではそこに何らかの「種子」を見い出す見地に立てているのだろうか? 一部の政治経済のエキスパートが警鐘を鳴らし続けた「根本的な経済原理の改革」を論じる際、必ず出て来るのは「現実と理想のせめぎあい」でしかない。しかし「産業革命」によって始まった「政治的、経済的システム」やそこから派生した「生成物」「エネルギーの供給と消費」「物流」の動きは、それが始まった当初から「不均衡なもの」として「やがて限界を迎える事」は、予測されていたはずで、 繰り返すが、 では「それら」は「過つるもの」なのか? 否である。 「種子」としての「不完全さ」は、決して否定すべきで無く、 しかし「種子」と「発芽したもの」とは「完全に別のもの」で無くてはいけない。 つまり「理想主義による否定」も「現実主義による妥協」も、 正しき「文明の発芽」とはなり得ないのだ。 このパラドックスを我々の文明はクリアせぬ限り、「自然な文明」とはなり得ない。 それは植物の群生の模倣にも至っていない。 この問題をクリアする様々な鍵が、魔術的思考には存在すると私は思う。「B-SIDE」においては、そういった魔術的思考の現実社会との呼応を主に取り上げていく予定である。多少の知識を聞き齧った者は、このページを「魔術的次元を無視しての屁理屈」のページとして冷笑に付すかも知れない。しかし、さらに魔術の深淵を覗いた諸氏及び現実社会で「実際に剣を持ち闘う立場」の諸氏にとっては、何らかのイメージのヒントを受け取るかも知れない。 「上もかくあるがごとく 下もしかり」なのだ。 やみくもに「高次元」を語るだけが魔術では無い。そのようなものは「砂上の楼閣」に過ぎない。現実に即してこそ魔術であり、それは中世の古式溢れる「儀式魔術」の時代も、現在の「電子文書」による「教理の伝達の時代」も、 何ら変わらないと、私は思うのだ。 八鍵ユウラ |
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