「節制
 TEMPERANCE」

ある夜の、砂漠の北の山奥の、
湖の畔に不幸な女が立っていた。

彼女はその頃にしては身分も高く裕福な家庭に育ち、
きちんとした教育を受けて育ったが、
成人する頃には家は没落し、両親は心労の末、相次いで他界した。

残された僅かの遺産だけが頼りであった女だが、
それも債権者に狙われ、途方に暮れていた頃、若い貴族と恋に落ちた。
しかしその貴族の狙いは彼女の持つ遺産で、

女は騙され、裏切られて財産を全て奪われてしまった。



今の女には帰る場所もなく、日々の金銭は、とうに底を付いて、
もはや今宵の飯にもありつけぬ様だった。

長く髪も身体も洗わず、
足は裸足のままで、服も着替えずぼろぼろで、

煌々と月の光の照りつける湖の畔で、ぼんやりと湖面を見つめ、
そして、女は入水の決心をし、一歩、足を進めた。



「このようなところで死なれても困るのだがな」



声に振り向くと、そこには一人の老人が立っていた。

気の難しそうな顔はしわくちゃで背は低く、
しかし着ている服は僧侶のもので、
腰にぶら下げた魚籠には数匹の小魚がぴちぴちと音を立てていた。
右肩に掛けた釣竿を女に向かって振りながら、老人は語った。

「この湖は儂の生活の糧だ。
 ここの魚と僅かの野菜で暮らしておるのだ。
 坊主の儂に明日から、お主の亡骸を突ついた魚を喰えと言うのか?」


「・・・魚も、殺して喰うなら亡骸ではありませんか」

女がそれだけ答えた。老人の右の眉が少々面白げに吊り上がる。

「ほう、幾らか教養の有る答ができると見える。
 死ぬ前に問答をやる余裕が有るなら付いて来い。
 身体は腹を減らしておるのだろう?」

女が、どうでも良いといった風に数回、頷く。
老人は先に歩き出し、女はのろのろと、その後を追った。





丘の上の古びた土壁造りの寺院に、老人はたった一人で暮らしていた。
寺院には祭壇と僅かの書物と、畑と、質素な部屋と、
そして建物に似合わぬ一本の立派な「老木」があった。

老人は何も言わず、何も聞かず、にこりともせずに魚を火で炙り、
暖めた粥と一緒に、女に差し出した。
女はただ黙って頭を下げ、出された粥と魚を、かつかつと食べた。


「堂の裏手に離れが有る。もう随分と誰も使っておらぬので、
 自分で掃除をせい。その前に髪と身体を井戸で洗え。

 明日は適当な頃に起きて、堂の床を掃くのだぞ」


食べ続ける女に、老人が淡々と命じた。
女の匙の動きが少し止まり、緩く頷いた。

「うむ」

それだけ言って、最後まで女の身の上を訊ねずに、
老人は自分の寝所に引っ込んでいった。




こうして女はしばらくの間、老人の寺に身を寄せた。


寺の生活は質素で、単調で、何の飾りも無かったが、
しかし「すること」はそこそこ多く、日々は忙しかった。

堂の掃除が終われば、
庭の掃除と畑の手入れを手伝わされた。井戸の水汲みもあった。
時おり老人は湖に釣に出かけ、その間に寝所の掃除もした。

ただただ毎日は、そういった家事の繰返しに過ぎなかったが、
する事があるだけで、女はこころが助けられていた。




老人はいつになっても身の上も入水の理由も訊ねなかった。

砂漠を渡って人が訪ねて来るでもない古びた静かな寺院でも、
それぞれの季節には季節なりの準備があり、
畑の作物も食うに困らないほどは実り、

そのような清貧な生活が月日を重ね、

やがて女が寺に住むようになってから、
一年を向かえようとしていた。




ある日、女は庭で老人に訊ねた。

「これは立派な樹でございますね」

「そうだな、儂が小さい頃からこの寺にある。
 その頃の僧の話では、樹齢は千年を越えておるそうだ」

「千年、ですか」

女が樹の幹に手を触れて、感慨深げに繰り返した。
見上げれば木漏れ陽が眩しく、枝の葉は風にさらさらと音を立てている。



「不思議とは、思わぬか」
「何がでございますか?」

「この樹は儂の記憶にある限り、まったくその高さを伸ばしておらぬ。
 もう、天に伸びる事を止めて久しい。

 これまで千年生きてきておるのなら、まだこの先、
 さらに、千年でも時間もあろうはずなのに、のう」

「・・・・・・・・・」

「樹とは、いったいいつから己の高さを、
 ここまでと定めるのであろうな。

 どこまでも、どこまでも天に向かい続けても良かろうものを。
 そう思わぬか?」



「そのような難しい事は、私には分かりかねます」 女が素直に言う。
「難しい本は、読む癖に、か?」老人が少し笑う。 女がうろたえた。
「いえ、そんな」

「知っておるぞ。儂のおらぬ間に、
 本に手を付けておるであろう。まぁそれは構わぬがな」

それは確かにその通りで、時おり老人が釣に出向く間、
女は老人の蔵書に、少し目を通していたのである。
退屈しのぎであったのだろう。

「わ、わたしは、堂の掃除をして参ります」

それだけ言って女が駆け出して行った。
老人は笑って何も言わず、たださらさらと鳴る枝葉を見上げて、佇んでいた。



その時、堂の方から、
がしゃんという陶器の割れる音と、女の小さな悲鳴が聞こえたのである。


老人が堂を覗くと、女が右手を押さえている。




祭壇の『右横』に据えられた大きな陶器が、床に落ちて砕けていた。




「も、申し訳ございません」 右手にわずかに血が滲んでいる。

「傷は大事無いか」
「は、はい。大した事は。 でも器が割れてしまいました」
「うむ。 少し離れておれ」

老人は割れた器の傍に屈み込み、口元に手を当てて、
じっとその様を見つめている。

「あの。高価なものだったのでしょうか」

女が不安になって聞く。
老人はそれに答えず、ただただ器の「ひび」の型を、指でなぞっていた。
しばらくして、数回頷くと老人が立ち上がり、
そして女に声を掛けた。

「いや、大したものではないので、心配するな。
 それより傷の手当てをしよう。 部屋に来い」








部屋で傷を手当てし、ひと息付いて後に、
老人は座り直し、おもむろに女に言った。



「お主はもうここから出て行かねばならん」
「え。」 女が驚いて老人を見る。



「ここから出なければならん。
 砂漠の向こうに大きな街がある。
 仕事も手配しよう。
 これからは一人で暮らすのだ。 よいな」

「え。 え。 そんな・・・お、お待ち下さい!」

女はひどく狼狽し、頭を床に付けて叫んだ。

「お許し下さい! お許し下さい! やはりあれは高価な器なのですね!」
「これ、器一つで怒るほど、儂を狭い人間と思うのか」

老人が言うが、女は聞き入れずに叫ぶ。

叫び声はだんだんと、涙声に変わっていった。


「嫌でございます! 嫌でございます!

 なにとぞお許し下さい!
 ここを出ていけなどと! 言わないで下さい!
 わたしを! 放り出さないで下さい!

 ここを出て! どこに行けとおっしゃるのですか!

 わたしに行く場所などありません!
 わたしには! ここしかいる場所がありません!

 どうか御考え直し下さい! お願いいたします!」


女が、ばらばらと大粒の涙をこぼして嘆願する。

「これ、聞かぬか」
「ずっとここに居とうございます! ここで暮らしとうございます!
 器の事は必ず償いをいたします! だから追い出さないで下さい!」


「割れた器に、卦が、出たのだ」「えっ・・・」


「いつかはどこかに、お主の出立を教える、
 何がしかの卦が出るとは、思っておった。

 もうお主は一人で生きねばならん。
 ここが仮の宿であるのは、分かっていた事ではないか」


「そんな・・いやです。 ここにおいて下さいませ。

 いつまでも、ここで暮らしとうございます。
 いつまでも、ここで暮らしとうございます。

 ・・・暮らしとうございます。」

床に突っ伏して肩を震わせ、女はいつまでも、
おんおんと泣き続ける。


「・・・頭を上げなさい」

静かに老人が言う。
まだ泣き止まぬ女は、顔をぐしゃぐしゃにして老人を見た。

「その若さで、このような古寺に隠遁するなど、
 良いわけが無かろう」

老人が女の両肩を支えて言う。それでも女は首を横に振り続ける。

「もうお主はここを出て、自らの道を行かねばならんのだ」
「いやです いやです おねがいでございます」



「・・・死にたいと思うほど、『ふしあわせ』で、あったのだろぅ?」
「・・・!!・・・・」

老人が初めて、その事に触れた。
女の目には、また新しい涙が、ぶわっと浮かんだ。



「あの時あのような身なりで死んでもよいと、思っていたのであろう?
 それほど、つらかったのだろう? つらいめに、あったのであろう?

 ならば、せめてそのつらさに見合うだけの『しあわせ』に、
 これから『ならねばいかん』ではないか。 そうであろう?」


かたかたと唇を震わせ、肩を震わせ、じっと老人を見つめて女が涙を流す。


「ここで、こころは癒せるであろうが、しあわせにはなれぬのだぞ。
 お主がたったそれほどのしあわせも、つかめぬ人生ならば、
 儂は何のために、お主を生かしたか分からぬではないか。

 二度と訪れるなとは言わぬ。
 しかし、今は出なければならん。 よいな。」


涙を流しながら女は老人を見つめ続けて、

やがて、弱く一度だけ頷いた。
そして、短く何度も、頷いた。

最後に、わあっと老人にしがみついて、泣いた。






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次の日の早朝に二人は寺院を出立し、
午前中の涼しいうちに砂漠を渡る事にした。

しかしこころを決めたとは言え、女の歩みはのろのろと遅く、
時おり振り返ってはぽろぽろと泣くので、
老人はそんな女を励ましながらの道中となり、

二人が街に着く頃には、そろそろ昼も近くなっていた。



そこはオアシスの麓の大きな街で、人通りもあり、
幾つかの市場は喧噪に溢れ、賑やかであった。
小さな包みを小脇に抱えた老人は女を連れて、
市場を通り過ぎ、泥工の工場に足を運んだ。

その頃の泥工の働き手はほとんどが女性で、
みな着物の裾を捲り、足でがしゃがしゃと泥をこねては、
ある者は反物に色を付け、またある者は泥で瓶や壺の型を作っていた。

熱気のある工場を通り抜け、老人と女は工場の親方と話をした。
親方と老人は旧知の間柄であるらしく、
女の職の話はすんなりと決まった。

「では落ち着き次第、明日からでも仕事を覚えるといい。
 住処はわざわざ借りなくとも、店の裏に宿舎があるから、
 心配はいらないぞ」

人の良さそうな親方は老人の紹介である事もあってか、
女の素性も何一つ聞く事も無かった。

「あ、ありがとうございます。 宜しくお願いいたします」




工場で出された昼食に呼ばれた後、
老人は次に、先ほど通り過ぎた市場に向かい、
女もただ後を追いかけ、二人はとある服飾の店に入った。

「いらっしゃいませ」

店の主人の応対は気にも止めず、老人はおもむろに、
脇に抱えていた包みを解いた。
中から出てきたのは金の刺繍が施された、立派な衣であった。

「これを売りたい」「えっ これはまた良い品ですが、よろしいので」
「うむ。 売った金でこの娘に、幾つか服を見繕ってやってくれぬか」
「え!」

驚いたのは後で聞いていた女である。

「坊主におなごの服は分からん。お主が奥に行って見て来い。
 儂は店の前で待っておる」

「で、でも」「いいからさっさと行ってこい」

老人は女の背を押して奥に追いやり、自分は店の前でのんびりと待った。
しばらくの後に女が、いくつかの安物の服を手に抱えて出てきた。
指先には余った金の包まれた小袋が掛けられている。

「金が余っとるではないか」老人が眉をしかめる。
「でも私はこれで十分でございます」

そう言って女が小袋を老人に渡す。
受取った老人は女が手に抱えた服の上に、じゃらっと小袋を返した。

「それは困ります! いくらなんでも」女が懇願する。

「ばかもの。あんな荒寺に金貨が何の役に立つ」
「でも でも」「そうじゃ、言い忘れておった」

老人が語った。



「お主が『しあわせ』を全て取り戻した時には、
 空には『しるし』が現れるであろう。

 しかし『しあわせ』を取り戻すためには『試練』もある。
 その時は、
 右手に『しるし』が現れるであろう。

 そういう卦であったからな。 忘れるなよ」



その時はまだ意味も分からず、女はただうんうんと頷いた。

「うむ、ではな。 達者で暮らせ」
「お。 お待ち下さい」「うん?」




「・・ほんとうに・・・・ありがとう、ございます」



それだけ言うのが精一杯だったのか、
ただ黙って、女は道に膝を付いて泣いた。

「落ち着いたら、いつでも遊びに来い」

老人もそれだけ言って、道を引き返し、北の砂漠へ向かい歩いて行った。

女は老人の姿が見えなくなるまで、
ただただ跪いたまま、道の端で泣いていた。






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女の新しい生活と仕事が始まった。


泥工の仕事は朝早くから夜中まで交代制で行なわれていた。
労働の環境は過酷で、慣れないうちは重労働である。

工場は泥が固まるのを防ぐため風通しが悪く、湿気が高い。
熱気は染料を混ぜる湯の水蒸気と働く女達の体温である。
真昼は息が詰まるほどに暑く、あまりの長時間の労働を行なえば、
熱射にやられ気分を悪くして倒れてしまう者も出る。

よって交代で屋外の日陰での「干し物・練り物」作業に出る。
そこは出来上がった反物や陶器の干し物と、
いちばん初期の泥練りの作業場で、風通しも良く、
一息つける作業場であった。

もちろん内と外の二つの作業場では、外の方が楽である。
そういう差があるので、どうしても新人は屋内の、
熱気ある作業場を担当させられる時間が多い。


それでも女は、文句一つ言わず働いた。

この程度の熱さなど、昔の苦しみに比べれば「さしたる事」では無かったからだ。
体中から玉のような汗を流し、もうもうと立ち篭める水蒸気の中で、
その身体を泥まみれにして、女は働いた。


女には目標があったのだ。

(恩を、返さなきゃいけない)

がしがしと泥を擦りながら、女は思った。 

(あの方に、せめてお金を返さなきゃいけない。
 働いて得たお金なら、喜んで受取ってくれるはずなんだ)

汚れた手で汗を拭えば、額も頬も泥だらけになる。

(喜んでもらいたい。 頑張ってるなと、誉めてもらいたい)

思い出せば、ぐっと目頭が熱くなる。
汚れた手で、今度は滲んだ涙を拭く。

(それくらいでなきゃ、会いにいけない。 会いたい。)

女は交代の時間も忘れて、汗を拭きながら夢中で泥を練る。


その女の右腕を、誰かがぐいっと乱暴に引き上げた。
腕を急に捻られて、痛みで女が振り返る。

「・・・なにやってんだぃ」
腕を捻ってそう言ったのは、少し太った年輩の女である。
屈んだ女の後ろに立って上から見据えていた。

「何をするんです、離して下さい」
「ちょっとこっちに来な」

年輩の女は腕力が強く、彼女は腕を引かれて工場の隅の洗い場に、
なすがままに引っ張られて行った。

「痛いです、離して下さい」

年輩の女は何も言わず、洗い場の水桶に女の右手をばしゃっと浸ける。
もう一方の手で、その右の指先をぎゅうぎゅうと絞るように洗う。
「!・・・・・」女の指先に、鈍い痛みが走った。

「見な」

ばしゃっと水桶から女の右手を引き上げて、
そのまま彼女の目の前に差し出した。

指先の爪の生え際が「逆剥け」でぼろぼろになり、
血が滲んでいる事に、女はその時初めて気付いた。

「あ。・・・・・」
「長い事泥を触ってるとね、感覚が無くなるんだ。
 放っときゃ指が膿んで、倍ぐらいに腫れちまう。
 ちょっとしゃがみな」

「・・・・・・・」「しゃがみなって。」また乱暴に腕を引く。
女が慌ててしゃがんだ。

年輩の女がごそごそと小さな缶を取り出す。蓋を開けたら中には軟膏が入っていた。
少し指で掬って、彼女の逆剥けに丁寧に擦り込み、
またごそごそと、今度は細く切った布切れを取り出して、
痛んだ指を巻き始めた。

「今日は、もう外の仕事だけやるんだよ」「・・・すみません」
「泣いて仕事したって進む量は一緒さね」「えっ・・・・・・」

「わけありなんだろ、あんたも?
 そうでなきゃこんなとこに、泥なんかつけやしないよね、違うかい?」

そう言って年輩の女は、彼女の下まぶたを指差した。
「あっ・・・」恥ずかしくなってまた拭こうとする彼女の手を、女が押さえる。

「泥のついた手で、目なんか拭くンじゃないよ」
「あ、あ。すみません」
「いちいち謝んなくてもいい。
 左手もすすいで来な。右手を浸けるンじゃないよ」

言われるがままに左手も洗う。やはり指先は逆剥けていた。
着ている服の脇の下、泥で汚れていないところで洗った指を拭いて、女の前にしゃがむ。
また同じように女がそこに軟膏を塗り込む。

「ここにはね、いろんな娘が来るんだよ」 軟膏を塗りながら年輩の女が語る。

「最初っから死んだ魚のような目をした娘も多いけど、
 あんたみたいに『がむしゃら』な娘もいる。
 がむしゃらな娘の方が、だいたい『しあわせ』なんだけどね」

「!・・・そんなこと」「ない、って言うんだろ?」
「はい・・・・・・・」「ひとつもなかったかい?」

「え?」「ひとつくらいは、あったろ? 『しあわせ』って言える事が」
「・・・・・・・・・」

彼女が老人の事を思い出し、そして、頷いた。

「うん。 それが今のあんたの支えなんだからね。
 でも、力を抜きなよ、休める時は休みな。
 こころは張ってても、身体は付いてきやしないんだ。
 倒れてからじゃぁ、遅いんだよ。 いいね」

「はい」彼女が返事をすると、年輩の女が、初めて笑った。
「いい返事だ。 おや、この傷は、なんだい?」「え?」

女が右手を見る。と、人さし指の付け根に「×印」の小さな傷があった。
ふと思い出す。寺で陶器を割った時の傷である。

「あ・・・これは・・・大切な傷です」
「大切な傷とね。 面白い物言いだね」「ええ」

「ふーん、ま、そういうのもいいさ。 大事にしな」また年輩の女が笑った。





宿舎には、確かにいろんな境遇の女が居た。

もちろん最初はそんな話をする事も無かったが、
少しづつ打ち解けるにつれ、お互いの昔を、
言葉を濁しながらでも語り合うようになっていく。

そんな周りの話を聞きながら、
最後の最後で老人に助けられた自分の幸運を、
女はひしひしと感じるようになった。
似たような境遇と苦労を味わいながら、何の救いも無く、
ただふらふらとこの泥工場に流れてきた娘も、中には居るからである。

そういう話を聞くにつれ、最初の頃の仕事に対する「悲痛さ」は消えていった。
仕事をしながら涙を浮かばせる事も、無くなっていった。



不思議に感じたのは、こうして少し肩の力が抜けた途端に、
逆に仕事が「はかどり出した」事であった。
しかしそれは、じつは当たり前の事で、
女は自分の動作から『無駄な動きが取れた』事が分からない。

ただ「老人に会いたい」という気持ちは相変わらずで、
前と変わってきたのは、その思いが心に浮かぶにつれ、
胸が痛むので無く、

(今頃、どうしているのだろう。 この時間なら、釣りかなぁ)と、

微笑みと共に思い出すようになった事である。

「何、にやにやしてるんだぃ。 色男の事でも思い出してるんだろ」
最近では、よく近くで一緒に仕事をするようになった年輩の女が茶化した。

「そんなんじゃ、ないっ」「へへ、どーだか」

こうして女はだんだんと、工場と仕事にも慣れ親しんでいった。






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外の干し場は商品の売場でもある。
女達が働く中を、瓶や壺、反物を見に来た客も数人、毎日のようにうろついている。

その中にはいわゆる「がらの悪い客」もいる。
そういう輩に限って、この工場の常連客であったりするからタチが悪い。

「よぅ、がんばってるじゃねーか」「きゃぁ」

無骨な手で、反物を干す女達の尻を撫でる数人の「ちんぴら」は、
工場の壺を買って水を溜め、駱駝で地方に運ぶ「水売り」である。

「ウチの女に手を出すんじゃねぇぞ」壺を客と見ている親方がちんぴらを睨む。
「てめぇら。大人しくできねぇのか」親方と壺を見ている客は水売りの元締めだった。

親方より歳は若いが、頑強そうな体つきに、
まるで山賊のような強面である。
無精髭の伸びた顔をしかめて、手下を叱りつけた。

「へへ、すいませんね」叱られた手下は悪びれる風も無い。

「まったく。・・・なぁ親方、それ以上まからねぇのか」
「無茶言うな、こっちだって、人、抱えてんだぞ」
「分かるけどよ。もう少し壺が保てばなぁ」
「そんなに早く割れちまうか?」

「まぁどこで買っても割れるやつは割れるんだけどなぁ」
「駱駝に幾つもぶら下げりゃあ、割れるのも仕方ねぇぞ」
「稼ぎが壺代で消えちまうのも、辛いんだ、わかるだろ」

二人は値段の交渉中であった。どうやら新しい壺の買込みらしい。

「うーん、まぁ、も少し考えてやるよ」「ありがてぇ。助かる」

そう言って交渉している二人を尻目に、また懲りずに手下が、
通りかかった女に手を出した。


ぱぁん! と大きな音がする。


親方と元締めが吃驚して振り返ると、手下の頬に綺麗な手形が付いている。
尻を触られて頬を叩いたのは、老人に世話された女である。


「何をするんです!」 女が叫ぶ。


最初わけもわからず頬を押さえていた手下が、
だんだんと真っ赤になり、叫んだ。

「てめぇ・・・泥工風情が何の真似だ?! あぁ?!」
「職の貴賎が無礼を許す理由になると思うのですか!」
「しょくの、き?き・・きせ・・・・・・なんだと?」

「馬鹿は黙れ」元締めがやってきて言う。

「でもよう、おかしら。」
「分かってる・・姉ちゃん。理屈は合ってるが、客の顔、叩いちゃいけねーだろ。
 いちいちそんな事で目くじら立ててたら、ここじゃ保たねぇんじゃねぇのか?」

元締めが女を睨んで言う。親方も同意した。

「元締めの言う通りだ。客の顔に手を上げるやつがあるか。謝れ」
「・・・・・いやです」女がきっぱりと言う。
「こまったやつだなぁ。元締めの顔が立たねぇだろ?」親方が頭をばりばりと掻いた。
「そ、そうだそうだ! こっちは客だぞ!」

二人が味方に付いたと思って威勢を良くしたのか、叩かれた子分が女に叫ぶ。
「おい、おめぇは黙ってろって」元締めが言うが、悪態が止まらない。

「てめーの作った壺を買ってやってンだぞ!
 その客の顔を叩いていいのか?! おう!」


これに親方がぴくりと反応した。
「・・・・買って『やってる』だと? あ?」


元締めが溜め息を付いて、両手で顔をごしごしと擦って言った。
「・・・あー・・・、この・・・ばかやろう!」
すぱぁん! と子分の後頭部を思い切りはたく。
子分が前に突んのめった。 見ていた女も驚く。

はたいた元締めが、女に向かって軽く手を振って言った。

「これで『あいこ』になっちまった。
 もういい。謝んなくっても。
 ・・・親方、勘弁な。さっきの件、頼むぜ」

元締めが女に振った手で、今度は軽く親方を拝む。親方も苦笑して言った。
「わかったわかった、今日のところは帰れ。
 明日には値段を出しとく」

「恩に着る。じゃぁな。 おら、とっとと歩かねぇか」
「で、でもよー、おかしら」「うるせぇっ」

子分の尻を軽く蹴飛ばしながら、元締めと水売り達は去って行った。






親方が一息付いて、女に向き直る。
「やれやれ、今度からは気を付けるんだぞ」

「私は悪い事はしてません」
「ばかやろう」女がこつんと軽く頭を小突かれる。「いたっ」

「良い悪いを言ってンじゃねぇ。ものには『加減』ってのがあるだろーが」
「そ、そんなこと言ったって」

「子分のざまぁお前も見たろ? 自分が正しいって思っちまえば、
 ああやって、暴言も止まんねーんだぞ。 墓穴掘って終わりだ」

女は言い返せない。親方の言う通りである。

「・・・・・・はい・・気を付けます」
「うん。 ほら、お前たちも仕事に戻れ」


そう言って周りで見ていた女衆を親方が散らせる。
仕事に戻ろうとした女の周りに、数人が駆け寄って来る。

「無茶するねぇ」最初に声を掛けたのは年輩の女である。
「でも正直、よくやったって感じだね」そう言って「にっ」と笑った。

「そうそう」「あいつらいっつも調子乗り過ぎなんだからさ」
周りもうんうんと賛同してくれるのが有難い。同じ宿舎の女達である。

「あの人たちは、水売りなんですか?」女が周りに訊ねた。

「そうだよ、まぁ仕事は真面目にやってるみたいなんだがね」
「あの風体じゃぁねぇ、喧嘩っ早いしさ」
「ここの常連だから甘い顔してたら、すぐ悪さしてくんだ、気を付けなよ」
「何かって言やぁ壺の出来が悪いってケチ付けてくるしね」「そうそう」

皆が口々に言う。最後の方の言葉が女には引っ掛かった。

(壺の出来・・・あの陶器は、すごく良く出来てた)

女が思い出したのは、ここに来るきっかけになった、
『老人の寺の割れた陶器』である。 同時に様々な事が思い起こされる。

本堂、庭、畑、樹、そして本。


(「難しい本は、読む癖に、か?」)

(そうだ。・・・確かあの本の中に) 女が思い出す。






 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★





その日は天気が良かったが、老人の釣の成果は「ボウズ」であった。
いい加減あきらめて湖から離れ、空の魚籠を覗きながら、
寺に向かって「てくてく」と歩く。もう日も沈みかけている。

(やれやれ。 まぁ昨日の残りの粥が有るか・・・・ん?)


寺院の庭を、竹の箒で掃く音がする。
見ると、街に世話した女であった。

彼女も老人に気付き、樹に箒を立て掛け、
にこっと笑って礼をする。

「おかえりなさいまし」

「・・・久しいのぅ、どのくらいになるか」

「半年でございます。洗い物が溜っておりましたので、洗っておきました」
「溜っておるのでは無い。溜めてまとめて洗うのだ。
 今日は坊主で魚が無い。粥の残りなら有るが、良いのか」

そう言って自然に釣竿と魚籠を女に差し出す。
女が受取って答えた。

「街から果物を買って参りました」「そうか。 それは有難い」
「・・・・ほんとうに・・・・・」「うん?」



「ほんとうに、お久しゅう・・・ございます」 釣竿を胸に、女が泣く。

「これ。『めそめそ』するでない。」「はい・・はい・・・・」
「仕事は、辛いか?」 泣きながら女はぶんぶんと首を横に振った。

「そうか、頑張っているのだな」

老人もそれ以上は何も言わず、女がほろほろと泣くに任せて、
夕暮れに染まる庭の端で、暫くの間、二人は向かい合って佇んでいた。






粥と幾つかの果物を平らげて後、女は老人に街の事を話した。

仕事の事、工場の人々の事、暮らし向きの事、
話し出せば尽きる事は無いかと思われたが、
今日、出向いた本来の用事をまず話しておくべきと思い、

壺と水売り達の事にも、話を及ばせた。

「ふむ、そのような者達もおるのか」頷きながら老人が聞く。

「はい。 彼等はもっと丈夫で長く保つ壺を、欲しがっておりました。
 それで私、思い出しまして」

「ああ、なるほど。 本があったな」「はい」
「あれは東国の陶芸の技法が書かれた本であった・・・
 どれだったか・・・うーむ」

老人が棚をごそごそと探し、本を見つける。
「おお、これだこれだ。 ほれ、持っていけ」 そう言って老人が差し出す。 

「お借りしても、よろしいですか?」
「やるから持って行け」「え。いえ、それは」

「もともと退屈凌ぎに買った本だ。もう何年も儂は目を通しておらぬのだから、
 これからも読む事は無いだろう。お主が持って行って役立てた方が、
 本も喜ぶだろうて」

「あ、ありがとうございます」「うむ。 励めよ」
「はい・・・・・ほんとうは」「うん? ほんとうは、どうした?」

「ほんとうは、働いてお金を返せるようになったら、
 顔を出そうと思っておりました。それが、逆に頼みごとをするなど」
「金など貸した覚えは無いが」「でも、あの衣を売った時に」

「儂は坊主で、金貸しでは無いぞ、と、
 そんな金を持って来ておったら叱るところだったのぅ」
「でも、私は、恩返しがしとうございます」

「恩返しがしたければ、早うしあわせになれ。 それを伝えに来い」老人が笑って言った。

「・・・・・・・・」「これ、泣くでないぞ」
ぼろっと、涙が出る。「これ。ほんとうになきべそだの、おぬしは」

ぐすっと泣き笑いの顔で女が涙を拭き、そして老人に、深々と頭を下げた。







  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★






女が街に本を持ち帰って来た頃に、砂漠にはさらさらと雨が降り出した。
半年に一度やってくる雨期である。

雨期の間は干し場が使えないので、作業の効率は極端に悪くなる。
そのため泥工の時間割も緩くなり、女達は暇になる。
逆に言えばちょうどいい骨休めの時期でもあり、
この頃を利用して田舎に戻ったりする者もいた。

よって宿舎も閑散として、日中でも静かである。

女も雨期の間は老人の寺に戻ろうかとも考えていたが、
本が手元にあるのなら、泥のある現場の方が、
暇にあかせて色々とやりたい事を試すのには都合が良い。

やりたい事とはもちろん、新しい壺の試作である。

幸いこの時期は泥も多く余っているので、誰も文句を言うわけでも無い。
そうやって本を読んでは何かを試している女を見て、
宿舎で暇をしていた数人の女達も、だんだんと興味を持ち始めた。



「へー、こんな本があるんだ」
夜の宿舎の一室、カンテラの灯りの下で、女の周りに集まって言う。
もともとが毎日を泥と格闘している女達である。
興味の無いわけがなかった。

「水の交ぜ具合で、随分変わるって書いてあるじゃないか」
「そりゃそーだよ、乾く時間も変わるんだからさ」

わいわいと集まって泥談議が始まる。

「捏ね方でも変わるンだよ、知ってるかい」
「捏ね方なんて人それぞれじゃないのかい」
「だから、壺の出来にムラができるんだよ」
「干してるうちから割れるのもあるしねぇ」

出てくるのはいつものような愚痴の言い合いではない。
おおむね建設的な意見で、中にはすぐにでも実用化できそうな意見も飛び出す。

「前からね、あたしゃそーした方が良いと思ってたンだ」
「それなら今の時間割を変えなきゃなんないよ」
「だから一度みんなで話し合った方がいいのさ」

一冊の本の周りで、女達の意識が変わっていく。
そこに集まっているのは「労働者」ではなく、
まぎれもない「技術者」たちであった。

そんな談議を聞きながら、不思議だなぁと、女は思った。
ふと右手の傷を撫でて、老人の寺での最初の頃を思い出す。

(あの時、私は「する事がある」って事が、救いだと思ってた)
(でも今は逆に「する事がない」って事が、みんなにいろんな事を考えさせてる)

(人って、その時その時で、必要なものが変わるんだなぁ)

そんな女の想いをよそに、わいわいと話は深夜に及んだ。





「なんだなんだお前たちゃ、休みじゃねぇのか?」

次の日の朝、親方が工場に出て来て驚く。
宿舎で休んでるはずの女達が、工場に出て来て泥だらけで、
作業していたからである。

「ああ親方。おかまいなく」「そーそー」女達が笑って返す。

「時間外で出ても給金は出せないぞ、いいのか」
「いいですって、仕事ってか遊びなんだから、まだね」

言われてみれば作業の工程も作っている壺の型も違う。
「なんなんだそりゃ」不審そうに親方が訊ねる。
「まだナイショだよ。ほら、邪魔邪魔」「おいおい」
親方が隅に追いやられる。女達が笑いながら作業を続けた。


そういう賑やかなみんなに混じって、女も懸命に試行錯誤を続ける。
全員の意見が、だんだんと一つの方向に纏まっていった。
そうこうしているうちに帰省していた者達も帰って来る。
宿舎はまた賑やかになり、話は広がっていった。

さらさらと降る雨が止み始め、また砂漠に暑さと、
抜けるような青空が広がる頃には、

工場に新しい壺の試作品が出来上がっていた。



「ふーむ」机の上に置かれた新しい壺を眺めながら、親方が唸る。

机の前には数人の女達が、そして先頭に本を持ち込んだ当人が立っている。
いつの間にやら周りから「あんたが前に立ちなよ」と押されて、
胸をどきどきとさせながら、親方に壺を提示したのである。
部屋の外からも、数人が中の動向を伺っていた。

親方が指で試作品を軽く弾く。「かんかん」と硬質な音がした。
新しい壺の表面は多少のざらつきと、横にぐるぐると微かな目がある。

「良くこれだけの硬さが出せたなぁ」親方が素直に感心した。

両手で少し持ち上げると、既成の壺よりやや軽い。
硬くて軽いという事は、泥特有の「脆さ」がないという事である。
裏返して底を「こんっこんっ」とやや強めに拳で叩く。
厚みもしっかりしているようだ。
その他の場所も幾つか、親方が丁寧に見て、

最後に言った。

「・・・・うん。いいだろう。 品に加えてみろ」

わっと歓声が上がる。

「やったやった。」「ようし、作るぞぅ」「上手くいったねー」

皆が口々に喜んできゃっきゃとはしゃぐ。
何より泥工たちから、こんな試作品の提示がある事自体、初めてなのだ。
親方も満足そうに顎を撫でながら、何回も頷いていた。







  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★





泥工達が作った「縄目の壺」は、近隣にちょっとした評判を巻き起こした。
なにせ新しい壺の開発など、ここしばらく行なわれた事など無かったからだ。
しかもそれを開発したのが、当時の職でどちらかと言えば「賤業」にあたる
現場で泥を練る女達である。評判にならぬはずが無い。

客も増えた。中には労働に従事する客ばかりで無く、
比較的身分の高い者たちの姿も見えるようになった。

「ほう、これがあの『縄目の壺』かね。もう少し薄いと思っていたが」
「もともとは水がめが目的ですから、あまり薄くは致しませんでした」

初見の客、そして身分の高い客が増えるという事は、
そこに新たに「接客」の仕事ができるという事である。
泥工達の中から幾人かの口の達者な、そして詳しい話の出来る者たちが、
接客に出てそれらの客と商談をする。

そういった客の中には現場の工程を見たいと申し出る者もあり、
また、そういう客は大概が「大口の商い」を持ち込んでくる者達である。

(人を、も少し雇わなきゃいけねぇかもなぁ)

最近の親方は、そんな嬉しい悩みを抱えていた。
もちろん壺の開発者である泥工達の賃金も、今までより向上し、
最近は仕事が上がると、皆で酒場で歓談する事も多くなった。



そうすると現金なもので、最初の取っ掛かりを作った本人は、
酒の席でもあっという間に話題の中心、人気者になってしまう。

「元をただせば、あんたの持って来た本あっての事だからねぇ」
「そうだよねぇ、これまで壺の試作とか考えても無かったしね」
「そんな事ないよ、みんなで頑張ったからじゃない」女が照れる。

そんな女の背中をどんと叩いて言うのが年輩の女で、
「あたしャこの娘が、最初からただもんじゃ無いって分かってたけどね」と、
もう得意満面である。にこにこしながら続けて言う。

「接客の業務も、あんたが仕切るべきだと思うんだが、どうだぃ?」
「え!・・・・いや、それは、あの・・あたしああいうのは苦手で」

「そうかねぇ、まぁ確かに喋りは苦手なとこもあるみたいだけどね」
「この娘はあれだよ、失礼な客が来た時は『平手』が飛ぶからねー」

皆で冗談まじりで笑う。女も合わせて苦笑いをするが、
実際のところは彼女にとって、深刻な問題だったのだ。


会いたくない。


家の没落。貴族との恋愛。そして裏切り。

彼女は彼女の過去を知っている相手に会いたくないのだ。
その相手に泥まみれに汚れた自分を、見せたくない。

職の貴賎を問わない姿勢でいるつもりだったし、
そんな事を思うのは周りの泥工達にも失礼なのは、十分理解していた。
だが心の奥では、自分が「落ちぶれている」という意識が、
どうしても消せなかったのだ。

それでなくとも身分の高そうな客の時には、
できるだけ干し場には近寄らないようにしていた彼女である。
客と対面で接客など、できるわけがない。

周りは気付いてはいなかったが、そんな彼女の心の傷は、
まだ完全には、癒えて無かったのである。



しかし気持ちではそう思っている彼女であっても、
いつもいつも都合良く干し場を敬遠できるわけもなく、
やがて誰か身分のある客と鉢合わせしてしまうであろう事は、
予測された事だった。

その日、彼女が捕まってしまったのは、一人の上品な老婦人である。




 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★




「あの、少し物を訊ねますが、お邪魔でなかったかしら?」

「あ! はい・・・なんでしょうか」 そう言われて、彼女はつい慌てて顔を伏せてしまう。
「・・・・・どうかされましたか?」「いえ。・・どういった御用件でしょう」

泥だらけの顔を手の甲でごしごしと拭くそぶりを見せながら、
上目でそっと老婦人の顔を伺う。
自分の記憶には、無い。でも相手が自分を知らないとは、限らない。

「泥工が泥で汚れているのは、当たり前の事です。
 そんなに気にしなくても良いのよ」

老婦人がちょっと微笑んだ。どうやら自分の態度を、
「顔が泥で汚れているのを恥ずかしがっている」と受取ったらしい。
そして、相手も自分とは何の面識も無いらしい。 少しほっとする。

「この工場で評判の『縄目の壺』を見せて頂きたいのです。
 屋敷の方に幾つか買って置こうと思うの」
「そうでしたか。どうぞ、こちらの右手の列が『縄目』です」
「これは、こちらの泥工の皆さんが発案したという話ですが」

「はい」彼女がにこっとして返す。その件は何度言われても嬉しい。

「私、今日は一言、御忠告もあるのです」「え?」

「ここにくる前に数件、他の工場を見て回りましたが、
 他所でも、もうこれと同じ型の壺の製作が、進んでいますよ」
「えっ。」
「おそらく買って行かれた方の中には、他所の工場の人間もいたと思います。
 聞けば製作工程まで見せていたとか。少し無防備でしたね」
「そんな!・・・これは私達が頑張って考え出した壺です。」


「良い物だから真似されるのです。それは誇っていいんじゃないかしら。
 でも、私も同じ女性として、あまり気分の良い話ではありません。

 今まで『賎しいものたちが作るもの』と言って何の改善もしなかった癖に、
 そんな『賎しいものたち』と思っていた相手が、自ら知恵を絞って壺を作った途端、
 今度は『出来が良いから、売れるから』と言って平気で真似をする。
 
 その連中の心根の方が、どれほど賎しい事でしょう。

 節度も何もありません。私も少々、腹を立てております。
 それで、おせっかいながら、話しておこうと思いました」


「わ、わざわざありがとうございます」
婦人の意志ある口調に逆に気押されて、彼女がぺこりと頭を下げる。

「次に新しい物を売り出す時は、銘を打つと良いでしょう」「え?」
「銘です。刀剣には、それぞれの刀匠の銘が打たれているでしょ?」

確かにその通りである、が、刀剣や美術品ならともかく、
この頃にはまだ、一般の商品に『銘を打つ』などという認識がそもそもなかった。
しかもこの婦人は「泥工の作る壺」に「銘を打て」と言っているのだ。
その言葉に彼女は、婦人の見識の高さと先進的なものの考え方を感じた。

「今の話、親方にお伝え下さいね。では壺を見せて頂こうかしら」「は、はい」

これが老婦人と女の最初の出会いである。





「銘なんてがらじゃねーんだがなぁ」親方が歩きながら、腕を組んで言う。

親方、水売りの元締め、そして彼女の3人が並んで干し場を歩いていた。
別に連れ立っているというのでなく、
親方と元締めが話をしているところに、彼女があの老婦人の話を報告したのである。

「俺は、その婆さんの言ってる事には賛成だな」元締めが言う。
「だいたい親方はなぁ、欲がなさ過ぎるぜ。
 あの『縄目』だって、もっと値段乗っけて売りに出したっていいのに、
 前の壺とほとんど変わらねぇ値段じゃねーか」

「そりゃだって、そんな工程が面倒になったって訳でもねぇし。 なぁ」

彼女が親方に言われて頷く。
その部分は十分に研究した個所でもあったからだ。
いくら壺が良くなっても手間が増えたのでは元も子もない。

同意された親方が、元締めに向き直って続けた。
「もともとは、あの時おめぇが言ってた話から始まった事でもあるんだぜ。
 いくら割れにくくっても、単価が上がったんじゃ、そっちも困るだろ?」
「聞いたよ。 転んでもタダじゃ起きねー姉ちゃんだなぁと思ったぜ」

元締めが子分を叩かれた一件を思い出して、笑った。
彼女も苦笑しながら、ちょっと睨む。

「それって、誉めてるんですか?」
「誉めてる誉めてる、正直ありがてぇんだ。
 あの『縄目』には、俺ら水売り連中も随分助けてもらってる。
 俺はあれだぜ、たとえ他所が似たような壺を売りに出したって、
 壺を買う時ゃ、お前の作った『縄目』を買うぜ」

意外にも元締めにまともに誉められて、彼女が赤くなる。
「あ、ありがとう」「おう。 あん時のいざこざと壺の出来は、別の話だ」
「他所じゃまけてくれって言っても通じねーしな」親方が笑って言った。
「それは言うなよぉ」

「はっはっは。 しかし、今さら『銘』とか打っても遅くねぇか?」
「あの御婦人は、『次に新しいものを売る時は』って言ってました」
「新しいたって、そんなもん作る予定なんか」「作ります」「へ?」

「作ります。 それも、言いにきたんです。 作らせて下さい」彼女が言い切った。

「・・・作りますって、お前ひとりでそんな」
「みんなの意見です。 みんな、怒ってます」「え、そうなのか?」「はい」
「子分達が気が収まらねぇとよ。 どうすんだ、親方」今度は元締めが茶化す。

だが、そんな元締めの茶々には反応せずに、意外に親方は考え込んだ。
「・・・・・・」「なんだなんだ、なんか不都合でもあんのか?」
「ばっかやろう」「えっ、なんで俺が怒られるんだよ」元締めには合点が行かない。

「・・・・うーん、まぁ、じゃ、やってみろ」親方が彼女に言った。
「はい! がんばります!」

彼女が大きく頭を下げて、仲間に報告するため走って行った。
その後ろ姿を見ながら、まだ親方が考え込んでいる。


「どしたんだ、悪いこっちゃねぇじゃねーか」
「・・・やり過ぎなきゃぁ、な・・」「え?」





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前回の「縄目」を試作してから、約一年が経過している。
その間、泥工達が『新作』に付いて話し合わなかった訳ではない。
むしろ、そういう話は何度も出ていた。工場で。宿舎で。酒場で。

もともと新作という点では、長年、誰も見向きもしなかった「泥工の壺」なのだ。
前回の研究の途中でも「改良すべき点」はあとからあとから湧くように出て来た。
初めての試みだったので、それらがすべて「縄目」に活かされていない事は、
作った当の本人達が、いちばん分かっている事である。

彼女たちには確信があった。 (次は、もっといいものが作れる)

ものを新しく考え、それを「かたち」にする事の充実感を、一度味わったのだ。
それはここ一年の間、彼女たちの中で、ずっとくすぶり続けていた火種だった。
なかったのは「きっかけ」である。今回の「盗作」が、そのきっかけになったのだ。

「真似したきゃ真似すればいいさ。ケチな事は言わないよ」
「でも今度作るやつは、中途半端な真似は、させないよぉ」

そこに親方の許可が出た。しかも次回の作品には「銘を打つ」と言うのだ。
皆のやる気が爆発した。これだけ条件が揃えば文句はない。



製作の指揮は、表面上は太った年輩の女が行なった。
周囲の信頼もあり、工場でも年長組だからである。
しかし何かを決定、あるいは修正する際には、必ず「裏の指揮者」に話が通された。
もちろん本の所有者である彼女だ。

人気はあると言っても、この工場においては比較的「新参者」の彼女に、
表立った指揮を取らせるべきでないと忠告したのは、

意外にも「新作」の話を聞かされた、あの老婦人である。


「この娘に人気があるのなら、なおさら表には立てずにおくべきです。
 面白くないと感じる人が、いないとも限りませんからね。
 女性中心の職場では、こういう面子は大切ですよ、面倒ですけど。

 特に今回は銘の入る仕事です。誰が聞いても文句の出ない人間を、
 先頭に立てておくべきです」


そう言って婦人が笑う。横で座って聞いている彼女を含め、
数人の企画の中心部の女達がうんうんと頷く。

彼女達は休みの時間を利用して、裏手の宿舎の木陰で話していた。

老婦人は不思議な客であった。客と言うより「相談相手」である。
銘を打つ提案をしてくれた婦人に「新作」の話をした際には、
素直に喜んでくれたが、泥工達はまた注意も受けた。

「事が決まった以上、箝口令を敷いて秘密裏に行ないなさい。
 貴女達は気付いてるかどうか分かりませんが、
 今でもここには時おり、他所の工場の者が偵察に来ているのですよ」

「こんな時だからこそ『縄目』の質は、絶対に落としてはいけませんよ。
 新作に頭が行ったら、どうしても既製品から気持ちが離れるのは人情ですが、
 そういう心の動きは、品物には顕著に表れるものですから」

「日常の仕事以上に、皆さん、する事が増える訳ですから、
 決して出来上がりを急いではなりません。
 焦って作って満足がいかないものが出来てしまったら、
 結局急いだ意味など、どこにも無くなってしまいますからね」

注意の幾つかは、一応の教育を受けた彼女も分かっていた事ではある。
が、婦人の言う通り「新参者」の自分が、まして歳上の多い泥工達に、
そんな偉そうな事は言えない。自分が製作の先頭に立っていたら、
結構余計な人間関係で悩んでしまったかも知れなかった。

その意味でも、年長組に指揮を譲ったのは正解だったのである。
そしてその年長組に助言してくれる婦人の存在は、何より自分がいちばん有難い。
有難いと同時に、不思議さが一段とつのる。


ある時彼女が、婦人と二人きりになった機会に、思い切って聞いた。

「あの・・・・」「はい? どうしました?」
「あの・・どうしてこんなに力を貸してくださるのでしょう」

「前に話したじゃありませんか、私も腹に据えかねたって」
「そ、そうでしたよね。」「ふふ、あの言葉を、お疑い?」

「いえ! そんな、そんな、とんでもございません」思いきり彼女が狼狽する。

「そんなに畏まらないで。 勘のいい娘だなぁと思っただけです」
「え?」「思惑が、ないわけではないの・・そうね、秘密にできる?」

そういって微笑みながら婦人が見つめる。彼女の鼓動が早くなる。
そんな彼女の返事を待たずに、婦人が続けた。



「前々から、街の特産が欲しいなぁと思っていたのです」



その一言で、この老婦人が誰であるのか、彼女は完全に理解した。
「・・・領主・・様・・?」「ナイショよ」 老婦人が、笑った。 

もう、彼女は声も出ない。
そのままへたへたと地面に座ろうとする彼女の腕を取って、婦人が起こす。
「さあ、そんなに畏まらないでと言ったじゃないですか」
「でも、でも」「さぁさぁ、お立ちなさい」

やっとの事で彼女が立ち上がる。が、胸に手を当ててうつむいたまま、
顔を上げようともしない。 胸の鼓動が収まらない。

「・・・貴女は、それなりの身分の家庭で、教育を受けた女性ですね」
彼女がびくっと肩を震わせ、顔を上げる。


「その教育を受けたあなたが、なぜ泥工をされているのかは、
 私は聞くつもりは、ありません。
 ただ、貴女にそれだけの教養が見え隠れするにも関わらず、
 その教養をひた隠しにしている事に、私は少なからず、
 こころを痛めていました」


「・・・・・・・・・・・」

「それが、周りと上手くやっていくための事なのか、
 それとも見せたくない過去をお持ちなのか、理由は分かりませんが、
 本当の自分を出せないでいるうちは、人はしあわせにはなれませんよ」

「!」 婦人の言葉が、深く胸を刺す。 彼女もつい言い放ってしまった。
「私は、私は、しあわせにならなきゃいけないんです」

「・・・・・・・そう・・」
「あ。 いえ、すみません」

「どなたかに、並々ならぬ恩を受けたのですね。
 貴女の幸せを、待っておられる方が、いるのですね」

「!・・・・・・」

何という洞察力であろう、あまりにも的を突いた言葉が返ってくる。
目を見開く彼女の態度に、微笑みながら婦人が続けた。

「それならば、もっと自分をお出しになった方が良いと思いますよ。
 その御恩を受けた方だけでなく、今のあなたの周りの人も、
 それを待っているはずです」

「そうなのでしょうか・・・」「ええ、もちろん、私も待っているのよ」

「・・・え?」
「あの『壺』は『あのまま』じゃいけないでしょ?
 あなたも、分かってると思ったのですけど」







深夜の宿舎、カンテラの灯りの下で、
彼女が考え込んでいる。

(「街の特産が欲しいなぁと思っていたのです」)
(「あなたも、分かってると思ったのですけど」)

婦人が放った謎掛けの回答は、もう当りが付いていた。

最初に真似された事を憂い、そして次に銘を打てと言い、
最後に『壺』を特産品にしたいと言っているのである。
話の流れから、婦人が新作に何を求めているのかは、見当が付く。

(壺を、ただの日用品から民芸品にするなら・・・
 たぶん「芸術性」を加味しろ、という事なんだろうなぁ)

しかし『縄目の壺』にそれをする事は、果して妥当なのかどうか?
周りの女達は、親方は、お客は、どう反応するだろうか?
また仮に、それができるとして、工程が複雑になるのではないか?
なにより一般に通用する芸術性が、『縄目』から出せるのか?

考えることがらが、後からいくらでも湧いてくる。
こういう視点で『縄目』を考える事ができるのは、
泥工達の中でも、自分しかいないであろうと婦人に評価されたのは、正直、嬉しい。

だが具体的な方法が浮かばない。ただひたすら考え込む毎日が続く。
そんなある晩、一つの考えがふと彼女の頭に降りてきた。

(反物の染料・・そうだ、泥に染料を混ぜると、どうなるんだろう)

染料を混ぜた泥と、普通の泥。
それを幾つかの比率で掛け合わせ、彼女は実際に壺を作ってみた。




その中の一つが、強烈に彼女の目を引いた。
周囲の人間を呼んでくる。数人の女達が集まってきた。

「どしたのさ? 何かあったのかぃ?」
「ちょっと見て欲しいの」彼女が壺を見せる。


「・・・・・・・あんた、これ、どうやってつくったんだぃ」



壺の色は、底から上に向けてなだらかに赤褐色の変化を起こし、
上部の地色との境には複雑な渦模様が表れている。
染料の成分が釉薬の役割を果したのか、
ざらざらとした表面は手触りはそのままに、鈍い光沢が浮かび上がっていた。
工程で生じる「縄目」に染料が薄く流れ込んだ様は、

もはや「縄目」と言うより、

「・・・『流紋』って言うのかなぁ」 女達の一人が呟く。


「流紋・・・流紋の壺?」「それ、いいね」「いい、いい、流紋の壺。」
「すごいじゃないか。これでいこうよ」「これ、高く売れるよ。きっと」

女達が口々に言い合う。
それは壺の試作を再開して、約三ヶ月の後の事であった。






 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★






「・・・・・・・・・・・」

もう、だんまりを決め込んでからどのくらい経つだろうか、
机の上に置かれた新作「流紋の壺」を目の前にして、
親方は腕を組んだまま一言もない。

製作組の皆も、机の前で居心地悪そうに、黙ったまま親方の言葉を待っている。
良いとも言われない。悪いとも言われない。
ただ黙って壺を見据えている親方の態度が、かえって無気味だ。

部屋の空気が、異様に重い。
それに堪え切れずに、先頭の彼女が質問を振った。

「あ、あの、ダメなんでしょうか?」

前作の「縄目」に対して「流紋」は、軽さも頑丈さも、相当改善されている。
もちろん見栄えは遥かに優れている。
これで駄目なはずがなく、仮に駄目と言われれば、自分達にはどうして良いか分からない。
しかしそんな不安も杞憂であった。親方がやっと口を開く。

「・・・・・正直、ここまでやるとは思ってなかったな」

うつむいていた皆が一斉に顔を上げた。「じゃ、じゃぁ」
それを親方が手で制する。

「いや、待て。」「えっ」
「そうだなぁ・・三日。 三日ほど、考えさせてくれねぇか」







「どうしちゃったんだろうねぇ」 
年輩の女が「くい」と杯を飲み干して、一言ぼやいた。

製作組の中心の数人が、夜の酒場で食事を取っていた。
もちろん、飯も酒も余り旨くない。昼間の親方の態度が気掛かりなのだ。

「あんた、どう思う?」指揮を取った女が、壺を考え出した当人に聞く。

「わかんない・・でも、あの壺にはあたし、自信はあるよ」

「そうだろ? そうだよね? 悪いはずないんだ」
「売り値とか、どのくらいにするか考えてるとか」
「いやぁ、そんな態度じゃなかったね、あれはさ」

皆ぼつぼつと話すが、もちろんこんなところで答が出るわけでもない。
そうこうしているうちに、一人二人と宿舎に帰り出す。

最後に一人、彼女が残った。

こういう事も珍しいのだが、
ぼんやりと考えながら、夜も更けた酒場のテーブルで、
あまり飲めない酒をちびちびと啜りながら、土壁に大きく開いた窓を見る。



酒場に来るようになってからは、ここが彼女のお気に入りの席だった。
南西に向いた窓から見える、街の灯りと遠い砂漠の向こうの山並みが、
一つの風景画のようである。砂漠の夜は、満天の星が降るかと思うほど美しい。

見ていて飽きないその風景を、ぼおっと見つめながら、
ほろ酔いの彼女がまた、出ない答を探す。

(あの壺、だめなのかなぁ。 親方どうしちゃったんだろ・・・あれ?)




「よぉ。 ここにいたのか」

窓から顔を出したのは、水売りの元締めだった。

「こんばんは」
「おめぇひとりか、珍しいな」

そう言って元締めが入口から入ってきて、向かいの席に座る。
「さっきまで、親方と話してたんだ」「えっ。」

「壺、見せてもらったぜ・・たいしたもんじゃねーか」
「あ、ありがとう。あの・・親方の様子どうでした?」
「その事で、ちょっと話があんだ。 いいか?」

彼女がうんうんと頷いて椅子を寄せる。気にならぬわけがない。




しかし親方に引き続いて、元締めもなかなか話し出さない。
店の親父に自分の酒を頼んで、そこから黙り込んだままだ。

「・・・・・何から話そうか・・・そうだな、親方は、知ってたんだ」

「え。 知ってたって、何を?」
「壺を良くする方法だよ。 長年、泥工の親方をやってる人だ。
 今までの壺、どう工程を変えれば良くなるかってのは、だいたい当りは付いてた。
 でもほら、あんな欲目の無ぇ人だろ。
 わざわざ新しい壺作って、今以上に儲けようなんて気がなかったのさ」

彼女は黙って聞いている。

「そこにおめーたちが、新しい壺を作って持ち出してきた。例の『縄目』だ。
 せっかく自分の工場の泥工が、休み返上して考えた壺だ、世には出してやりてぇ。
 そう思ったらしいんだな。 幸い、あの『縄目』は『やり過ぎて』なかったしな」

「やり過ぎて?」

「そうだよ。今度のあれ、なんだっけ、『流紋』だっけか」 女が頷く。
「あれはな、やり過ぎちまったんだよ」「え?」


「あの模様の事じゃねぇぞ。あれは親方も誉めてた。問題は、壺の重さだ」

「重さ・・・でも、前の『縄目』より軽いはずです」
「おう、俺も持ってみた。 ありゃぁ、かなり軽い」「でしょ?」


「親方に言われたよ。 あの壺が出回ったら『水の値が崩れる』ってな」
「え!・・・・・・・・・」


「そうだろ? 水売りは壺に『水を入れて』砂漠を運ぶのが仕事だ。
 壺が軽くなれば水は運びやすくなる。仕事は楽になる。

 そうなりゃ、水を買う側は、それを理由に『買い叩ける』わけだ。
 相手に買叩く気が無くても、水売りたちの間で、
 必ず値の張り合いが起きて、値が崩れるとさ」


「・・・・・・・・・・・」
「まぁそんだけ壺の出来が良いって事なんだけどな」




彼女がうつむく。 
そんな事は、考えた事も無かった。 思い出したのは親方の台詞だ。

(「良い悪いを言ってンじゃねぇ。ものには『加減』ってのがあるだろーが」)

「で、俺が呼び出されて言われたって訳だ。『予想通りになっちまった』ってな。
 親方も、次の新作は相当良い出来だろうって踏んでたんだ。
 その通りになっちまった。
 期待を裏切らねーやつだって、誉めてたぜ」



そう言って元締めが笑うが、彼女の表情は暗い。
それも当然であろう。
ひたすら良いものを目指した末、こういう結果に終わったのだ。

「・・・・・・・・・・・・・・」





「そんでもって今が、怒鳴り付けてきた帰りなんだ」 元締めが酒を一口あおる。
「・・・・・・・・? え? 怒鳴るって、誰を?」 彼女が顔を上げた。

「親方に決まってンだろうが、言ってやったぜ『ふざけんな』ってな。」
「え? え?」

「そりゃそーだろ? おめぇ、どう思うよ? あ?
 そーいうことはつまり『俺らに気を使って』壺を出さねぇって、こったろ?
 俺らの『稼ぎが減るから、食い扶持が減るから』新作は出さねーって事じゃねーか?」

「う、うん。」
「なめんじゃねーよ。 俺たちゃ砂漠の『運・び・屋』だぜ?
 他人様に『てめぇの食い扶持』心配されるほど、落ちぶれちゃいねーってんだ。」

「あ、あたしに言われても」
「だから。 そー言ってきた帰りだっつってんだろ。」
「・・・親方は、何て答えたんですか?」
「『じゃ壺を出してもいいのか』ってさ」
「・・・・・・・で、それに何て・・・」



「あたりまえじゃねーかって、言ってやったぜ」 にっと、元締めが笑った。




ぱあっと彼女の顔が明るくなった。

でかい骨張った元締めの手を取ってぶんぶんと振る。

「ありがとう! ありがとう!」
「いや、おめぇ、そりゃ、まーな。ははははは。・・・でもなぁ」
「え?」

「でもなぁ、啖呵は切っちまったんだが、正直、水の値が落ちるのは痛いんだ。
 で、ここからが本題なんだが、おめぇら壺の大きさを、もっと小さく作れよ」
「小さくって、どのくらい?」
「俺らが売りさばけるぐらいにだ、駱駝で運んでよ」

言ってる意味が良く分からない彼女に、元締めが続ける。

「つまり、もう『壺ごと売っちまう』つもりなのさ、水をな」
「ああ」やっと彼女が理解する。

「分かるな。 あれはなぁ、放っといてもあちこちに広まる品だぜ。
 あの『流紋』で、馬鹿でかい水がめばっかり作ってるんじゃ勿体無ぇぞ。
 銘も底に焼きつけるんだろ。小さくて、売り捌きやすい品が欲しいんだ。
 こういう酒場の机に置いたって、洒落てんじゃねーのか」

思いきり顔に似合わない事を元締めが言う。彼女は可笑しくて吹いてしまった。

「笑うなよぉ、いい考えだと思わねぇか?」「思う思う、ごめんなさい」



「そうだろ、それともう一つなんだが・・・その、な」ここでまた元締めが口籠る。
「もう一つ?」

「あれだ、俺が前々から考えていたんだが、どうも相談する相手がいなくてな。
 ウチの連中は馬鹿ばっかりで話にならねぇんだ。・・・お前、他所から来たんだろ」

これまた意味が分からないまま、彼女が頷く。

「で、聞きてーんだが、他所ではあれか?
 人を駱駝で連れて回って、金になるってホントか?」

「ああ、案内人の事」「そーそー、それだそれだ」
「案内人をやるの?」

「お前は知らねぇかもしんねぇが、この街は砂漠の中継地なんだぜ。
 南に行くにも北に行くにも、ここは通り道なんだ。
 街を引っ越したいやつ、旅をしてみたいやつはいくらでもいるが、
 皆、周りが砂漠なもんで腰が引けてるのさ。
 それで、その案内人か? それをやってだな、御礼をがっぽりと」

「がっぽりなんて駄目よ、山賊じゃないんだから」「え。そ、そーか?」

「そうよ。ただでさえ見た目が怖いんだから料金は良心的にしなきゃ。
 見た目悪くて値段も高かったら滅茶苦茶予想通りじゃない。ちがう?」
「そ、そんな事言ってもだな、ある程度は貰わねーと採算が合わねぇし」
「砂漠って一晩で渡るわけじゃないでしょ、ここが中継地って言うなら」
「まぁ、そうだな。 だいたいこの街で一泊って事に・・・・あ、・・」

「そう。宿と契約を結べばいいのよ。
 連れてきたお客さんは契約してる宿に流すの。
 その宿の代金に、少しこちらの取り分を乗せておけばいいじゃない。
 もちろん定期的にお客さんを連れてくる条件で、
 宿代は割安にしてもらうように交渉しなきゃ駄目よ」

「そかそか、なるほどなぁ」
「もともと旅の実費が掛かるって事は、お客だって承知してるんだから」
「・・おめぇやっぱり、それなりの教育受けた女だな」「え...えっ」

ふいに元締めが言ったので彼女が少々焦る。
「こ、これくらいは誰でも知ってる事だよ」

「ウチの仲間でこういう話できるやつはいねーよ。泥工の連中も一緒だろ。
 お前、自分が普通だと思ってんだろうが、そりゃ随分ズレてんだぜ。
 まぁでも、お前の過去を詮索するつもりはねぇんだ」

そこで改まって、元締めが頭を軽く下げる。

「要は、知恵を借りてぇのさ。これからもいろいろと相談に乗ってくれ」
「そんな、頭を上げてください。 私で良ければいつでも話は聞くから」
「すまねぇ。じゃさっそく明日の朝でも親方に壺の件を話してみようぜ」 

「うん。」






 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★






状況は劇変した。

工場が売り出した「流紋の壺」が近隣に大当たりしたのだ。



泥工の作る壺は元々が「簡易品」であって決して「芸術品」ではない。
多くの場合では水がめやその他の用途に使われ、
民家においても屋外に放置されている程度の品だった、が、
これが「縄目」から「流紋」に至って、壺そのものを屋内の装飾に使う家が増え、
また壺に「銘が打たれている」事も、壺の価値を向上させた。

要は、単に染料を混ぜて練った壺でしかない「流紋」だったので、
真似ようとすれば他の工場でも似たような壺を作る事は可能だったが、
さすがに「銘」の有る無しは買い手にとって「本物と贋物」ほどの意味を持つので、
どこの工場でも「売れないまがい物」を作る度胸は無かったのだ。

幾つかの工場では、正式に製作と銘の焼き入れの許可を貰うため、
親方に交渉するところも出てきた。

時期をほぼ同じくして、水売り達の新しい仕事も開始された。
旅の手伝いをする「案内人夫」の仕事である。
この仕事も大いに成功を収めた。案内人夫の需要は近隣に極めて高く、
また、この街を拠点にする事によって街の経済も促進した。


頃合を見計らって領主である婦人は、正式に「流紋」を街の特産に定めた。



この事に一番仰天したのは言うまでもなく、工場の親方である。

話を聞いた元締めも、当然驚く。「えっ あの婆さんって、領主様だったのか?」

「おお。そして聞いてくれ。こいつはその事知ってて黙ってたんだぜ」
そう言って親方が、苦笑しながら彼女の頭を羽交い締めにして、ぐりぐりと拳で小突いた。
「いたたたた 痛いですっ痛いですっ」
「そ−いう事なら一言話せ馬鹿やろう」
「だって黙っててって言われたんです」

「はっはっは、こちらとしちゃありがてぇ、運ぶ人夫達にも箔が付くってもんだ」
「笑い事じゃねぇぞ、こっちは契約を結びたいって業者が一気に増えて大変だぜ」
「そんな事言って、顔は全然大変そうじゃねーじゃねぇか」「え、そ、そうか?」

親方の顔からどうしても弛みが消えない。嬉しくて仕方がないから当然なのだろう。

「工場の拡張も考えた方がいいって、言ってましたよぉ」
「おめーがそんな心配しなくていいんだっ」「いたたた」
彼女がいらん事を提案して、またぐりぐりと小突かれる。

しかしその提案は、すぐに現実のものになった。
実際人手が足りなくなってきた事は事実なので、
泥工にも多くの人間が新しく雇われ、工場も拡張された。

こうして「流紋」が売り出されてから約半年の間で、
街は随分と様変わりを見せたのである。




しかし周囲の評価とは裏腹に、彼女自身は、
自らが街の発展に大きく寄与した自覚が全く感じられなかった。
むしろその無頓着さに周囲が呆れるくらいである。

午前中の工場でじゃぶじゃぶと、彼女と並んで反物を漱ぐ年輩の女が訊ねる。
「夕べは遅くまで酒場で、人夫達と来月の予定を話し合ってたんだろ?」
「ええ、順調そうですよ、あちらも」笑いながら彼女が答える。

「午前の仕事は休んでも良かったんだよ、無理して平気かい?」
「大丈夫ですよ。今日のうちに、ここの反物は終わらせなきゃ」
「・・・なんて言うか、欲の無い娘だねぇ」「え?」

「いや、だからみんな、あんたを当てにするのかも知れないね」
そう言って女が笑う。そこへ新人の泥工が走ってやってきた。

「あの。 りょ、領主様が来られてるんですが・・・」
「あ、はい。じゃ、ちょっと代わって」「は、はい。」

彼女が新人の娘と交代して、前掛けで手を拭いながら工場を出ていく。
そんな彼女を見送りながら、新人が年輩の女に恐る恐る訊ねる。

「・・・・・あのぉ」「ん? どしたぃ?」
「あのひとって、どんな人なんでしょう?」

「うーん、見たまんま普通の泥工なんだけどねぇ」年輩の女が苦笑した。





干し場では老婦人がにこにこと機嫌よく、親方と世間話をしている。
空には雲が多い日であった。そろそろまた砂漠に雨期がやってくるのだ。

「またしばらくは雨になりますから、工場も能率が下がるんですがねぇ」
「あら、泥工の皆さんには良い骨休めですよ、最近は忙しかったのでしょう?」
「おかげさまで。まぁ人も増えて大分楽になりましたけどね。
 おお、きたきた。おい、ここだここだ」

親方が走ってきた彼女に手招きする。

「どうも、お待たせしました」「おう、おつかれさん」

「頑張っているみたいですね」老婦人が微笑んで彼女に話し出した。
「案内人の方も順調だとか。本当にしっかりした方ね、あなたは」

「そんな。 頑張ってるのは水売りの皆さんで、
 私は横からいろいろと口を出してるだけです」
「そんな謙遜なさらなくていいのよ。今日は、一緒に喜んでもらいたくて」
「え?」

にこにこしながら老婦人が続けた。

「皆さんのおかげで、この街も随分豊かになりました。
 税収も増えて少し余裕が出来ましたので、
 私の長年の夢が叶いそうなのです」
「夢・・・ですか?」



「ええ、この街に取水用の水路を引くのが、私の夢だったの。
 それがやっと実現する事になったわ」



「水路。すごいじゃないですか」彼女が素直に喜んだ。

「ありがとう。オアシスから街の中に格子状の水路を引いて、
 街の中ならどこでも、水を汲めるような設備にするのよ」
「それができれば、また名物になって人が呼べるなぁって、
 領主様と話をしてたところなんだ」親方が言う。

「それで建設を北の都に依託したのです。
 そしたら事業の代表の方が、ここの壺を知っていましてね」
「えっ。 そんなに有名になってるんですか」

「ねぇ。私も驚くやら嬉しいやらで。せっかくですから、
 工場も見学してもらおうと思って。ああ、あの人です」

そう言って老婦人が壺を熱心に見ている一人の男性を指差した。






 男が、振り返った。
 彼女が、硬直する。


 「・・・!・・・」



まぎれもなく、その男は、
遠い昔に彼女を裏切った、あの貴族であった。 


目の前が真っ白になる。 
時間が止まったかのようだ。



「いやぁ、みごとな壺ですね。噂になるだけの事はある」

男が歩きながら近付いてくる。 反射的に彼女は顔を伏せた。
と、男もふと立ち止まって彼女の顔をいぶかしげに見つめた。
「・・・・ん?」


「!!!あ! あの! あたし! すみません!」
「え? あの、もし」

老婦人が止めるのも聞かずに、彼女はそのまま振り向かずに宿舎へ走った。

「お、おい。・・・・どうしたんだあいつぁ」親方が呆れる。
「すいませんね、なんかあったのかなぁ。ちょっと呼んできます」



「あ。 いや、私に行かせてもらえませんか」男が言う。

「? お二人は、お知り合い?」
「まぁ・・・・そんなもんです」







(見られた。) 最初に走った意識は、その一言である。




(この姿を、最も見られたくないやつに、見られた。)
(なんで? なんであいつがここにいるの?)

宿舎の裏の木陰に走り込み、息をはぁはぁとつく。
心臓が割れるように痛い。

宿舎の土壁に、ぱた、ぱた、ぱたぱたぱたと黒い跡が付き始めた。
雨だ。 思わず彼女が立ち上がって、土壁に背中を付ける。

まだ晴間の残る空から、ばらばらばらと粒になった砂漠の雨がこぼれ落ちて、

やがて、さぁぁぁぁと糸のように降り始めた。



その雨に髪と頬を晒したまま、彼女が立ち尽くす。
混乱して、上手く考えがまとまらない。
濡れる頬を手でごしごしとこすり、その擦った手を見つめると、
指先はひび割れて、昔の頃より肌はごつごつと硬く、浅黒い。

(いつから、あたし、こんな手になったんだろ?)
(なに考えてんの? ここにいて、どうするの?)
(昔はもっと、きれいな指をしてたんじゃなかったっけ?)
(なぜあたしここに隠れてるの? 隠れる必要があるの?)

自分の中で、幾つもの自分が交錯する。 もう一度強く頬をこする。


「逃げる事はないだろ?」

驚いて彼女が声の方を向いた。男が少し笑いながら立っている。



「久しぶりじゃないか。 こんなところで、働いてたんだ」

「・・・よくそんな軽口が叩けるわね」彼女が土壁に寄り掛かったまま、言い放つ。


「ご挨拶だなぁ、まだ昔の事を根に持ってるのか?」
「この街に、なにしに来たのよ」
「話を聞かなかったのか? 水路を作るって言ってただろ?」

「北の都の事業者ってあなたなの? いつからそんな仕事に手を出してるわけ?」
「街の行政が絡む仕事だ。 仕事を受けるにも、それなりの身分が必要なわけさ」

「ふぅん・・・また自分の『身分を』利用してるんだ」彼女が悪態を付く。

「・・・いろいろと昔の事に関して、誤解があるようだな」
「誤解? 人のなけなしの財産を騙し取っておきながら!」

「いつ私が財産を騙し取ったりなんか、したかな?」
「・・・・なんですってぇ・・・」

彼女が、男を強く睨み付ける。
昔の記憶が怒りと共に、まざまざと思い浮かんできた。

「あたしの財産を、全て名義を書き換えた癖に!
 出て行く時には、私には何も残ってなかったじゃない!」
「一時的なものだろ? ああでもしなきゃ、あの財産は、
 すべて債権人に奪い取られていたはずだよ?」

「その金を他の女に貢いでいたのは、どういうわけ?」
「ああ、他の女に目が行ったのは謝るけど、
 別にきみの金を使ったわけじゃない。借りただけだ」

男が平然と言う。

「一度名義を移した財産は、数年は動かせないんだ。
 それを承知で移しただろ、君も。
 だったら私が使っても一緒じゃないか。後で精算するんだから。
 精算を待たずに出て行ったのは、君の勝手だがね」

「それを! 浮気に使うのが正しいわけ?!
 そんな真似されて、あたしに何年もそこで堪えろって言うの?!」



「じゃぁ言わせてもらうが。 君は本当に私を愛していたか?」


「えっ?」

「本当に私が好きで私のところに来たのか?
 君が必要としていたのは、私の『身分だけ』ではなかったか?
 ただ単に『逃げ込む場所』として、私を利用しただけじゃなかったか?」

「そ、それは」

「浮気浮気と言って騒ぐが、
 君は本当に『私を一番愛していたから』怒っていたのか?
 単に『自分の女としてのプライド』が傷つけられたから、
 それで怒っていただけではなかったのか?」

「・・・・・・・・・・」
「さっきまでの威勢はどうしたんだ?」

ぐっと睨んだ彼女の目に涙が滲む。言い返せない自分が、歯痒い。

「ようは、二人で『騙し合い』をしていたわけだ。
 勝ったのは私で、君は負けた。それだけだ。
 でも、もうそんな事は水に流そう。
 どうだ、この仕事を手伝うつもりはないか?」

「誰があなたなんかと!」

「元々この仕事も、君が参加する権利がある」
「え?」


「君の金が資本なんだよ。この水路の事業はね。
 大当たりしたよ。私は充分稼がせてもらった。
 欲しければ、事業の権利は全て君にあげよう」

男が、にっこりと微笑んだ。
彼女が唇を噛む。ぎりぎりと爪が食い込むほどに拳を握りしめた。


「おいおい、こんなに良い話なのに、なぜ睨むんだ」
「誰が・・・あんたの情けなんか受けるものですか」

「じゃぁどうするんだ? 今の生活に満足してるのか?
 街では君の事が随分評価されてるって言うのに、
 君はなぜ今でも、そんな格好をしてるんだ?
 なぜ泥工なんか、やってるんだ?
 君は今でも、ただ単に周りから利用されてるだけじゃないのか?」

「私の周りにそんな人はいない! 利用するだけなんて!」

「現に利用されてるじゃないか。
 連中にその自覚がないから、なおさらタチが悪いんだろ?
 じゃぁ聞くが、誰か君を昔の生活に戻せる人間がいるか?
 君のした事に、目に見える対価を払った相手がいるのか?」

「そ、そんな必要無い」

「意地を張るなよ。私はただ借りたものを返す、と言ってるんだ。
 そんなプライドが何になる。チャンスをふいにするつもりか?
 他の女に目が行ったのも悪い、勝手に君の金を使ったのも悪い、
 だから謝るし、金も増やして返すと言ってるんだぞ。
 これ以上私にどうしろっていうんだ? 言ってみろ」

「・・・・・・・・・・」

「思いつかないだろ?
 そりゃそうだよ、これだけ譲歩してるんだぞ。
 資本があったからって、
 この事業を育てるのは私だって苦労したんだ。
 それをそのまま渡すって言ってるんだからな。
 それとも一生、泥工をやって暮らすのか?」


睨み付けていた顔が、だんだんとうつむく。



何よりも致命的だったのは、怒りを持続するには時間が経ち過ぎていた事。
そしてこの街に来てからは、苦労はしたが決して『不幸』ではなかった事。
仲間ができた事。人に信頼された事。努力の成果が実った事。

それらはすべて『良い事』であったはずなのに、
それらが今、彼女の怒りを弱くさせる。


彼女の心の揺らぎを、まるで見透かしたかのように男が止めを刺す。


「今の君は登り調子だ。ちがうかい?
 今の君に必要なのは、勢いをつけるだけの『基盤』だよ。
 その基盤を渡す為に、私はここにきた運命だったんだと思うよ。
 変な意地を張らずに、この運命を受け入れるべきじゃないかな。

 お金も身分も、あって困るものじゃないじゃないか。
 昔に縛られて、見逃す必要はない。そうだろ?」


「・・・・・・・・・・・・」



黙りこくった彼女の様子を見て、男が内心満足する。

(ふふ、女って生き物は、簡単に出来てるもんだなぁ)

「まぁ雨期の間は、私はこの街にいる。 ゆっくり考えるといい」
それだけ言い残して、男はその場を立ち去って行った。





「・・・・・・・・・」

雨期特有の温い雨に、髪をさらさらと濡らしながら、
女がうつむいたまま、黙っている。

言いたい事は山ほどあったはずなのに、
ろくに言い返す事も出来なかった。
男の言った台詞が耳から離れない。

(「それとも一生、泥工をやって暮らすのか?」)





ふと気付くと、右手が生温い。

ゆっくりと開いた右の拳を見ると、
あの『十字の傷』が開いて、血を流していた。
ぎりぎりと握りしめた時に、傷口を爪で破いたのだろう。



「・・あ・・・・」


 ―『しあわせ』を取り戻すためには『試練』もある。
 ― その時は、
 ― 右手に『しるし』が現れるであろう。

 ― そういう卦であったからな。 忘れるなよ


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