「節制
 TEMPERANCE」 後編

砂漠の雨は、さらさらと振り続いていた。

乾き切った土地には、それは癒しの雨ではあったが、
これより姑く雨期の終わるまで、
オアシスの街は旅人が訪れる事も減り、

泥工の工場でも、またぼちぼちと帰省するものも増え始める。






「何? おめぇも帰るって、どこか帰る場所なんてあったのかよ」

客の少なくなった夜の酒場で、
元締めが手にした杯をふと止めて、女に聞いた。
彼女に関して、そういう話は初めて聞いたからである。

「・・・うん、北のお寺に」 女が答える。
「・・・まぁこの時期だから別にいいんだけどよ、
 お前最近、なんだかおかしくねぇか」
「え? そ、そうかな」

彼女は視線を反らして、自分の杯にとくとくと酒を注いだ。

そんな彼女をじっと見る元締めには、だいたいの心当りは付いている。
あの『貴族』が来てから、水路の工事が始まってから、
彼女の様子は明らかにおかしくなっているのだ。が、
そんな事を詮索するわけにもいかない。

(・・・ちぇ)

「え?」「なんでもねーよ」
元締めがくいっと酒を煽って、話題を変えた。

「まぁ俺たちの方も暇だしな。
 この時期を選んで砂漠を旅する物好きも、あまりいねぇや」
「案内人の仕事、少ないの?」

「雨の間はしょうがねぇや。水売りの頃から分かってる事だからな。
 ウチの連中も何人かは水路の工事に、日銭を稼ぎに出てるんだ。
 ちょうど暇な時期にあの工事があったんで、
 かえって助かってる連中もいるんじゃぁねぇかな」

「そうなんだ・・」
「雨の砂漠は足を取られるからな、気を付けて帰れよ」
「うん」








雨期の干し場は昼間も少し肌寒い。
壺や反物もなく、ただがらんと広く感じる。

「そうですか・・・まぁたまには里帰りもいいでしょうね」
老婦人がその雨の中で、ちょっと寂しそうに微笑む。

「すいませんね、せっかく会いに来てくださったのに」親方が謝った。
「そんな、いいですのよ。私もただ寄っただけですし」

宿舎の端で老婦人と親方、そして貴族の男が三人で話し込んでいた。
最近は工事が進むに連れ、老婦人は貴族の男と連れ立って、
ちょくちょく街の中の現場を見て回るのが日課になっていた。
今日はその帰りに工場に顔を出したところである。


「雨の間は、干し物はやらないのですかな」貴族の男が聞く。

「いえ、工場の中にちょっと干せる場所をこさえまして。
 前は、雨期は生産も落としたんですがね。
 最近は干すのを中断すると、品が足りなくなるんでさ。
 それでも外よりは、乾きが悪いですねぇ」

「なるほど」

話を聞きながら、男は別の事を考えている。
頭の中で考えていた策略が、形になってきた。

(ここの親方や女領主には、あいつは信頼があるわけだ)
(あいつが戻らないうちに、話を振っても良いかも知れんな)




「どうか、されましたか?」
「いや・・・彼女の事を考えていました」貴族が答える。二人が怪訝そうな顔をした。

「お二人とも、と言うか、周りの皆さんも薄々気付かれていると思いますが、
 私は昔の彼女を知っている人間です」

「やはり、そうなのですね。 では彼女が里帰りした理由は」

「私に今の姿を見られた事でしょうね」


二人は納得がいったが、この貴族が彼女を今の身分に追いやった、
当の本人である事には、もちろん気付いていない。

「うーん、泥工の姿は、さすがに厳しいかも知れませんねぇ」
親方が腕組みをしてうんうんと頷く。それに婦人も同意した。

「確かにあの娘は、昔をひた隠しに隠すところがありました」

「追いかけて話を聞いたら彼女は随分悩んでいたようです。
 私のような『昔を知っている人間』に会う時までには、
 それなりの身分に戻っていたかった、と言っていました。
 不憫な話です」

「そういう事なら、相談してくれればよかったのに・・・・」
「彼女は、そういうところは遠慮ばかりする性格ですからね」

婦人が頷き、男が続けた。

「街では功績も上げ、自分の作った壺は有名になった。
 でも相変わらず自分自身は、泥を練る毎日。
 ここからどうやって『昔に戻るか』、
 そもそももう『戻れないのではないか』と泣きましてね」

男が根も葉もない事を告げる。
が、婦人はそれを真実と受取ってしまった。

「・・・そうですか・・・・」

婦人の胸が痛む。確かに周りは彼女を評価してはいたが、
ではその評価を何らかの形にして返したかと言うと、
何もしていない事に、今さらながら気付く。

「私達は、あの娘に何もしてやっていないのです、まだ」
「いえいえ、これからしてあげりゃ良いじゃないですか」親方が婦人に言う。



(釣れたな) 男が、薄く笑った。






 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★






寺に帰った彼女は、老人にはただ「雨期の休みを取りました」とだけ答え、
なんとなく「ぼぉっと」して毎日を過ごした。

いきなり戻って来られた老人であったが、その理由を聞くでもなく、
二人は昔の生活に戻って、堂の掃除をしたり、作物の世話をして、
穏やかな毎日を暮らしていた。

(まぁ、こういう事もあるじゃろう) 特に老人は心配もしていなかった。

砂漠の雨は時に強く、時に優しく、日々瀟々と降り続けた。





そんなある日、窓辺でたんとんと老人の肩を叩く彼女が、
ふとその手を止めて一言呟いた。


「・・・・・街には、帰りたくありません」



「・・・またおぬしはそんな事を言う。
 街でなにごとか、あったのか?」

ちょっと寂しげに笑って、彼女が返す。

「人と会いました」「ふむ」


窓の外は、今日もさらさらと雨が落ちている。
彼女は、やっと、街から戻ってきた理由を老人に語った。

彼女の生い立ちから、自分の昔の暮らし、家の没落と、
貴族の出会い、そして別れ、街での再会。

この時になって、はじめて老人は、
彼女の入水の理由も知ったのである。



「そういう『いきさつ』があったのか・・で、
 お主は今は、どう考えておるのかな?」

「・・自分でも、良く分かりません。
 あの男を憎み続けるには、少し時間が経ち過ぎて・・」
「まぁそれは、お主が街で上手くやっている証拠でもあるがな」
「え?」

「以前より、不幸を感じなくなったのだよ。良い事ではないか」
そう言って老人が笑う。

「でも、やはり一緒に仕事をする気には、なれません」
「うん? その男が一緒に仕事をしようなどと提案したのか?」
「はい。 彼は今、街に水路を引く灌漑の事業を行なってます」

「ふむ。いろいろと、妙な勘が疼くわぃ」
「え?」

「北の都へ行く」「えっ」

老人が唐突に言い放つ。

貴族がやってきた北の都は、言うまでもなく女の故郷である。
彼女が慌てるのをよそに、老人が席を立った。


「ちと、調べものがあるのだ・・・お主は街へ帰るのだ。良いな」






 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★





女が街に帰って来た時には、工事も徐々に進んでいた。
さくさくと濡れた土を掘り出している人夫たちの中には、
雨期で休んでいる案内人達も居る。

複雑な胸中で、彼女はそんな風景を見ながら工場へ向かう。
この工事が貴族の事業である以上、あまり良い気はしない。
しかし領主は、水路建設を「長年の夢」と言っていたのだ。

(御婦人の力には、なってあげたいなぁ・・でも・・・)

自分がどう振舞うのが適当なのか、まだ女は決めかねていた。
しかし、そんな彼女よりも、
また今回も貴族の男が一枚上手だったのである。

彼女が退路を絶たれるきっかけは、工場の親方の台詞から始まった。




「よぉ。じいさんは元気だったかい」

にこにこしながら親方が、帰ってきた彼女に声をかける。
雨期の閑散とした工場に居るはずが、妙に機嫌が良い。

「ええ・・あの、どうしたんですか?」
「うん? どうしたって、なにがだ?」
「いえ、何だか、御機嫌のようなので」

「わかるか。ははは。いやぁ、今回は大きな仕事になるぞぉ」
「え?」

「水路だよ、例の水路だ。あれに陶壁を貼るんだ」
「陶壁って・・・・陶器で、壁を貼るんですか?」




「そうだ。四角に焼いてだな。しかも『流紋』の陶壁だぞ」
「えっ!」 女が驚く。




「お前の業績を、街に残すんだ。たいしたもんじゃねぇか」
「え! え! ちょ、ちょっと待って下さい」
「水路の底を陶器で覆うんだぞ。大仕事だな」
「だ、誰が言い出したんですか。そんな事を」

「うん? 領主様に決まってるじゃねぇか」
「御婦人が?」
「そうだぜ。しかもこの事業が終わったら、
 領主様が正式な後見人にだな」



「・・・・・後見人って?」「お前の後見人だよ」



彼女は開いた口が塞がらない。
その後ろから、聞き慣れた声がする。

「あら、帰ってらしたのね。お話は親方さんから聞きましたか?」

女が振向くと、当の婦人である。
そしてそのやや後ろに、例の貴族の姿が見えた。

「こ、こんにちは」

彼女が頓珍漢な返事をして、すぐさま本題に入った。

「あ、あの、『流紋』で水路に陶器の壁を作るって」
「その通りですよ。すばらしい思いつきでしょう?」
「それで。その、後見人って、今、親方から聞いて」
「ええ。ぜひ。私があなたの身元を保証しますから」

「保証・・」

「誰に紹介しても大丈夫なように、ですよ。
 あなたは安心して水路の事業を行なって下さいな」

にこやかに婦人が微笑む。その後ろで男が笑った。



完全に、彼女は合点がいった。
貴族が、この二人に何か吹き込んだのだ。



彼女が一歩前に出る。
「・・・どういうつもり・・」「さて工事を視察しましょうか」
彼女に構わず、貴族が婦人に後ろから声をかけた。
「ああ、そうですね。では、また詳しい話は今度ね」

それだけ話して、婦人と貴族は歓談しながら去っていった。


「・・・・・・・・・・・」
「おい? どうした?」



「一体! 何があったんですか!」彼女が親方に食ってかかる。



その剣幕に親方も仰天して後ずさり、思わず口に出した。

「え。え、いや、だっておめぇ、昔の身分に戻りたいんだろ?」

「!・・・・その話を、誰が?」
「あ!・・・いや、その」
「あいつが? あいつが言ったのですか?」

彼女が狼狽する。そんなはずは、ないのだ。
あの男が自分との過去を言えるはずがない。
女から金を巻き上げて、今の事業を起こしたなどと、
あの男が言えるはずがないのだ。

そんな彼女の狼狽ぶりを見て、親方は貴族に言われた言葉を思い出した。

(『あまり昔の事には触れずにいて下さい。苦しませるだけです』)

「ほとんど詳しくは聞いてないんだ、ホントだ」
「・・・・・ホントに?」「ああ、聞いてない」

彼女は思う。(そうだよね、言えるはずないんだ)
親方も思う。(やっぱり触れない方がいいんだな)

無論、親方は女と貴族の過去は、知らない。
すべては貴族の策略通りなのである。
彼女が自分から『男に騙されて金を奪われた』などという事を、
決して話し出さないであろうと、貴族は計算済みだったのだ。



「そんな昔の話より、この街に来てから、
 お前がやった事に対してだな、恩返しがしたいわけだ。
 俺らも、領主様もな」

親方が優しく言う。

「そんな。恩返しなんて・・」
「だからこれはチャンスなんだぞ。工場の指揮はお前に任せる。
 帰ってくるのを待ってたんだ。一つ頑張ってみちゃくれないか?」

「・・・・・・・・・・・・」


彼女の思考が、だんだんと混乱していく。




この件をここで断れば、親方も領主も「なぜ?」と聞くだろう。
理由を答える為には、貴族と自分の過去を隠してはいられない。

ではいっその事話すのか? 話せばどうなるだろうか?
婦人は、どうするだろう? 話を白紙に戻すだろうか?

白紙に戻すとは、水路を諦めるという事だろうか?

自分と貴族の過去のしがらみを知った上で、なお、
婦人は貴族に、水路の建設を続行させるだろうか?

(・・・・・・・・・・・・)

させるかもしれない。させないかもしれない。
それはわからない。

(しかし言った後では、取り返しがつかない)




水路建設が行なわれれば、
街は潤う。また旅人を呼ぶ名物にもなるだろう。
婦人は夢が叶う。工場も有名になるはずだろう。
そして自分と自分の作品が街に大きく名を残す。

さらに婦人が、自分の後見人になるとまで言っているのだ。
良い事尽くめなのである。


ただ一つ。
ただ一つだけ。
あの男がこれに絡んでいる事を除けば。


それさえ除けば、降って湧いたような幸運尽くめなのである。

(私があきらめさえすれば、あの男を許せば)
(すべて丸く収まるんだろうか・・・・・・)
(試練って、・・・そういう事なんだろうか)



ぼぅっと立ち尽くす彼女に、親方が声をかける。
「おい、だいじょうぶか? 工場の指揮の件は、任せていいんだな?」
「・・え? あ、その、どういった事を私がやればいいんでしょうか」
「こっちに来てみな」親方が手招きして、工場に向かって歩き出した。





工場の中は雨期だというのに大勢の泥工が働いていた。
召集がかかったのだろう、みな忙しく動き回っている。 
その中には、あの年輩の太った女も居た。

「やぁ、おかえり。話は聞いたのかい?」
「はい・・今、外で親方から。どんな具合なんです?」
「見てみな」女が顎で、工場の隅の方をしゃくって見せた。

隅の一区画を、積み上げられた『陶製の壁』が占領していた。
何百枚あるだろうか。




彼女は唖然として、傍に近付く。後ろから女が声をかけた。

「迂闊に触るんじゃないよ。崩れてくるからね」

積み上げられた陶壁は、一つ一つはほぼ均等な正方形で、
表面には言うまでもなく『流紋』独特の紋様が浮き出ている。

「・・・・これ、どうやって作ったんですか?」

振向いて聞いた彼女が、その目で合点がいった。
もう片方の隅に鉄製の『型』が積み上げられている。
おそらくあれに泥を流し込んで型を取っているのだろう。


「壺造りよりは、遥かに簡単だよなぁ」親方が腕組みして頷く。
「あの型一つで20枚から造れるんだ。一日で100から150ってとこかな」
「水路全体で、どのくらい必要なんですか?」彼女が尋ねた。

「その辺を、お前に任せたいんだよ」「えっ」

「正直言って、まだ見当が付いていねぇんだ。その辺がな。
 お前に任せたいってのは、工事の現場とこことの連絡と、
 数量の計算、人員の配分、あと日程の調整も頼みたいな」
「そ、そんなの。 私には無理です」

「無理ってこたないじゃないか。案内人の時も上手くやってただろ」
これは年輩の女の台詞である。にこにこしながら女が続ける。

「ていうか、こういう事はあんたじゃなきゃ無理さね。頼むよ。ね」




(断るも何も、もう・・後に引けなくなってるじゃなぃ・・・)




「うん? 何か言ったか?」親方が聞き返す。

「・・頑張ってみます」

「おお。そうかそうか。まぁそんなに心配するな。
 まずはそうだなぁ、工事の現場に行ってみて、
 話を通してからにするか。一人で大丈夫か?」

「ええ」

というより、一対一であの男とは、話さないといけない。





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「一体、どういうつもりなわけ?」
「・・開口一番がそんな台詞か? 他に聞く事もあるだろ?」

テントの奥の椅子に座った相手を、彼女が睨み付けたが、
貴族はそんな視線にも頓着がないかのように、あっさりと言葉を返す。



街の大通りに掘込まれている水路は完成が近く、
ここから先の工事は、水路の支線になるだろう。
現場のテントは通りに面した広場の一角にあり、

夕暮れのこの時間は、貴族が一人でくつろいでいた。
老婦人は、今日はもう引き上げたところであろう。


「まぁ座れよ。一応ここに図面もある。
 今後の事を話しておかないとな」

「まだ質問に答えてない!」「何が聞きたいんだ?」
「皆に何を吹き込んだの?」「案を出しただけだろ」

「あたしの昔を、喋ったわけ?」女の目が険しくなる。

「うん? 私に喋って欲しかったのか? 洗いざらい?」
「そんな事をしたら、アナタどうなると思ってるのよ!」
「私がどうなると言うか、この水路はどうなるだろうね」

「アナタって人は・・」「領主様は、随分楽しみにしてるのだが」
「卑怯者!」「おいおい。待ってくれよ。大人なんだよ考え方が」

「私の考えが、子どもだって言うの?」

男が足を組み直して、呆れたように言い放つ。

「街の人の期待を裏切るのは子どもじゃないのか?
 いい加減にしろよ。もう工事は始まってるんだ。
 私達の過去は、街の人たちには関係ないんだぞ」

「それは!・・・そう、だけど」

「そう思うなら座れよ。仕事の話が先だろ」
「・・・・・・・」

彼女は不承々々ながら、がたんと乱暴に椅子を引いて、
机の前に座った。





「現在掘り込みが終わってる水路は、オアシスから1キロ地点まで。
 街の通り左右に、主幹の2本が繋がってる。ここには貼っていい」
「・・・左右で2キロ? あの陶壁は、一枚の長さはいくらなの?」
「約50センチだ。だから2枚で1メートル。1キロには二千枚だな」

「じゃぁ左右で四千枚? 横壁には貼らない?」
「貼らない。そんな予算はない。底面だけだな」
「現場に持ち込んだ後は、そっちの管理なのね」
「そうだ、だからもう工場から運び出していい」

「運び出すのは誰がやるの?」「人夫をよこす」
「何人?」「そうだなぁ、10人てとこだろうな」


彼女が工場の隅に積んであった陶壁を思い出す。

50センチ四方ならヒト1人が座る敷布程度の大きさだろう。
もともとが『流紋』の陶壁なので、そう重くはないはずだ。
多めに見積もっても一枚が2キロ。10枚で20キロ程度で、
それなら竿に吊して、二人で運んでも、そう負担ではない。

人夫10人が二人一組、計5組で10枚運ぶのだから、
一往復で50枚運べる勘定になる。

縛って、吊して、運んで、降ろして、帰ってきて。
工場と通りとの間なら一往復30分というところだろう。
休まず運んでも、一時間で二往復しかできない。

朝から夕方まで考えて、せいぜい15〜16往復が限界である。
しかし人夫たちも飯を食う時間も休憩も必要になるだろうし、
そもそも今日だけで終わる仕事ではない。無理は禁物である。

(1日500って、とこだろうか)

人夫全員が1日10往復してくれれば、500は運び出せるのだ。
親方は工場で1日に100〜150枚生産すると言っていたから、
1日500枚運び出せるなら、工場に陶壁がだぶつく事はない。



「・・・・なんとかなる、と、思う」
女が自信なさげに言う。頭の中の計算だけなのだから無理もない。

「ようし、決まりだ。じゃあこちらも、そのように手配しよう」
貴族はそれだけ言うと、もう話す事は何もないとでも言うように、
両の手を軽く「ぱん」と叩いて席を立った。


「待ってよ。水路全部で陶壁が何枚必要なのか、まだ聞いてないよ」
「うん? それは分からんな」「え?」

「掘り終わってるのが、今で全体の半分ってとこだな。
 これからは支幹を掘るが、長さは増えるかも知れん」
「でも・・そんなに予算はないって言ってたじゃない」



男が笑って答える。

「陶壁ばかり貼っても、儲かるのは工場じゃないか」
「えっ」



「横壁にまで貼る予算があるなら、
 支幹を増やした方が良いと提言したのは、私だよ。
 その方が工場の親方も、街の者のねたみを買わずに済むだろ?」

(・・嘘だ・・)

掘込む長さを増やした方が、貴族の取り分が増えるのは明白である。
限られた予算の中で、工場よりも自分の取り分を増やすために、
婦人に「横壁よりも支幹を優先すべき」と吹き込んだのだろう。

女はそう思った・・が、貴族の言い分も決していい加減ではない。
確かに横壁にまで流紋を貼る金があるなら、支幹を増やした方が、
街の為には、なるのだ。



「じゃぁ・・今はとりあえず四千枚で半分なのね」
自分の気持ちを押さえ込んで、女が尋ねた。

「そうだ。だからあと四千枚、支幹に必要なのは決定してる。
 そこから増えても、残りが倍になるって事はないだろうな」
「じゃぁせいぜい追加があっても二千枚?」「そんなとこだ」

水路全部で一万枚ということで、当面の目処は突いた。
工場での一日生産が100〜150なら、間を取って125。
全体で約80日間、工場は生産を続ければ良い事になる。

(・・・今の時点で、どのくらい工場に置いてあるんだろう)

女が寺に帰ってから工場では陶壁を作り始めたのだ。
二週間でも帰っていただろうか、記憶は定かでない。
仮に二週間なら、そろそろ二千枚を越える頃である。

このペースでいくなら、約一月半で一万枚に達するだろう。




       ☆★☆




「ふーむ。じゃ一日最低130で、あと一月半てとこなんだな」

親方が髭を撫でながら考える横で、女が頷いて、さらに尋ねた。

「どうでしょう? 日常の業務に支障はありますか?」
「まぁ壺作りの手が減るのは分かってた事だからなぁ。
 しかしこの雨だし、注文が多いって事もねぇからな。」

「大丈夫そうですか」「うむ、いけるだろう」

女がほっと胸をなで下ろす。一応自分の目算は通る事になる。
そんな女の様子を見て、親方が笑って言葉を続けた。

「おまえはやっぱ、こういう段取りが向いてるんじゃねぇか」
「・・そんなことないです。気ばかり疲れて、良い事ないし」

「こういうのに向かないやつってのはな、
 いくら気を使っても心配が消えねぇんだ。
 おまえは一つ一つ心配事を潰していけるんだから、
 やっぱ向いてンだよ、がんばれ。な」

親方にそう言われて、彼女は少し肩が軽くなった気がした。
仕事の目処は立った事だし、あとは計画通りに進めば良い。
もちろん終盤で陶壁の数を調整する事も出てくるだろうが、
おおむね計算通りで事は運ぶだろう。


現場から工場にまわされた人夫10人に、彼女が指示を出し、
搬送用の竿と縄も準備できた。


こうして、作業は開始された。

が、計画は最初から狂いを見せ始めたのである。





  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★





彼女は、この時期が「砂漠の雨期」である事を完全に忘れていたのだ。

10枚の陶壁を縄で包んで竿に吊すのだから、
それを抱えて人が運べば「がちゃがちゃ」とぶつかって壁が傷付いてしまう。
事実、工場に積んであった陶壁の間にも、緩衝用の「藁」が敷かれていた。

当然、藁ごと縄で括って竿に吊すのだが、この藁が雨を吸うのである。

そこ数分の雨なら、何ら問題はない。が、通りまでの30分のあいだに、
じわじわと染み込んだ雨が、陶壁をだんだんと重くさせる。
雨を吸うのは陶壁の藁だけではない、人夫の服も雨を吸うのだ。

人夫にとっては、疲れの溜まる後半になるにつれて、
肩の荷物が重くなるのだから、たまったものではない。
雨の強く降る日などは、遅々として作業は進まなくなる。

四日目までは、それでも彼等はせっせと搬送に勤しんだが、
さすがに五日目には、彼等の間から不満の声が上がった。


「見て下さいよ、これ。」
そう言って人夫の一人が肩を捲ると、
竿を抱える部分が、腫れて痣になっている。

「現場で土掘ってるのと給金同じって条件で来てるんですぜ。
 これじゃぁちょっと、割に合わねぇですよ」
「うーん、でもお給金は、わたしは任されてないから・・・」
「じゃぁせめて、搬送の方は交代制って事にしてくださいよ」




人夫に交渉されて、彼女は貴族に交代制の許可を頼んだが、

「それは構わんが、交代の段取りは、君が指揮を取るんだな」
「えっ でも、現場に直接声をかけて交代させて、いいの?」

「普通は良くない。現場の作業が混乱するからね。
 みんなだって、計画して作業してるんだからさ。
 だからそんな交渉は、普通は突っぱねるもんだ。
 いちいち聞いてたら、君の仕事が増えるだけさ」

「でも・・確かにちょっと、きつそうだし・・・」

「まぁ、いい顔がしたければ、勝手にするんだな」
「!・・・そんなつもりで言ってるんじゃない!」
「どんなつもりでも構わないから、責任は取れよ」

それ以上は貴族も取り合わない。軽く手を降って女を追い返すだけである。



仕方がないので、彼女は単独で人夫たちと交渉し、
搬送のスケジュールを交代制に組み直していった。

しかし、搬送から現場に戻ってきた人夫たちは、
当然仕事の感想を現場の仲間に漏らす。
感想と言うよりは、もはや愚痴である。

「ありゃぁ割に合わねぇぜ。こっちで穴掘ってる方がいいな」
「え、そうなのかよ。俺ァ明後日は工場に呼ばれてんだぜぇ」
「そりゃ御愁傷様だなぁ、休みでも取っちまったらどうだ?」

そんな感じでだんだんと『割に合わない』というイメージが定着していく。
一週間もすれば、女が現場に交渉に来ると、元気で働いている人夫たちが、
こそこそとできるだけ女と目を合わせないように、そっぽを向き始めた。

「あの、明日の壁の運び込みなんだけど」「・・・・え、え? あっしですかぃ」
「この現場から誰か出てくれないかしら」「あ、いえ。どうでしょうねぇ。うん」

聞かれた人夫もしどろもどろである。

「こっちは今、ちょっと手が離せないんでさ。な、なぁ」「お、おぅ、そうだな」

「・・・・そぅ・・・わかりました」





そういう態度に気付かないほど女も鈍感ではない。
ふぅとため息を付いて、次の現場に重い足を運ぶ。

搬送に手を貸す積極的な人夫が少なくなるにつれ、
交代のスケジュールを組むのが手間になってくる。
たった十人がなかなか集まらない。日によっては、
六人、三組を集めるのが、やっとの日も出てくる。


どうせなら一気に運ぶ壁の枚数を十枚から減らそうとも思った、が、
最初から搬送がこんな調子なので、計画通りに数が運べてはいない。

(でもこんなんじゃ、いつか誰も手伝ってくれなくなる)

さんざん悩んだ挙げ句、試しに枚数を人夫に任せる事にしてみた。



すると今度は、人夫によって「きちんと働く者」「働かない者」が出始めた。
同じ日に組になって搬送しているのに、組によって運ぶ枚数が変わってくる。
短気な人夫になると、適当な仕事をしてる組の相手を、その場で罵り始めた。

「おい、全然数が足りてねぇじゃねーかよっ ちゃんと仕事しろよっ」
「ああ? 足りてねぇって何だ? 一気にどれだけ担ごうが勝手だろ。
 そんな頑張っておめぇ、姉チャンに取り入ろうって魂胆じゃねぇ?」

「何だとテメェ、コラ」「何だ? やるってのか?」

時には掴み合いになりそうになる人夫たちを、女が慌てて止めに入る。

「やめてやめて。 ケンカなんか、しないでよっ」
「しかしよぉー、こんな一方的に手ぇ抜かれちゃ、
 真面目にやってるこっちが馬鹿みてぇですぜっ」

「わかりました。やっぱり私が数を決めますから」

結局の所、一度に運ぶ壁の枚数を、八枚で統一する事に落ち着いた。

これだけの事を決めるのに、随分と気苦労をしてしまう。
計算も最初からやり直しである。




        ☆★☆



「なんだい、じゃぁここで積む時にさ、藁の量を減らしゃいいじゃないか。
 藁が雨を吸うんだろ? そんなの、もっと早く言えば良かったのにさぁ」

彼女の横で、反物を染めながら年輩の女が身体を揺すって笑う。

「うん」隣の女の割と明るい反応に、彼女もほっとして頷いた。


彼女が現場と工場の連絡を任されたとは言え、
それで日常業務を休めると言うわけではない。

日々の仕事は当然のごとく行なわなければならなかったのだが、
仕事中に現場や人夫からの呼出しを受けると、
どうしてもそちらを優先させて出張らなければならなかった。

そんなわけで、やりかけの仕事の後始末など、
結構この年輩の女が手を貸してくれていたのだ。
そういう事もあって、なかなか工場の行程を自分の為に変えさせる事など、
相手に言い出せなかったのである。

しかし搬出の行程が芳しくない現状では、壁の枚数や人夫の手配と合わせて、
藁の重さもできるだけ減らして効率を上げねばならない。
そこで思い切って女に相談したのである。


「水臭いねぇ、そんな気を使う事ないじゃないか」
「ありがと。 最近どうも、気疲れしちゃってて」

彼女が眠そうに目をしぱしぱと二、三度つぶるのを横目で見ながら、
年輩の女が心配そうに声をかける。

「あまりこっちの仕事まで、気にかけなくて良いんだからね。
 身体がきつい時は、ちゃんと休みを取るようにするんだよ」

「うん」


工場内の労働はきつくはあったが、彼女にとっては息のつける時間でもあった。
周りの泥工たちは、彼女の足を引っ張らないようにと何かと気遣ってくれる。
そんな心配りが、今は何より有難い。

二度の壺製作を経て、ここの泥工たちの連帯感は、
他の工場より遥かに強くなっていた。
彼女が都合で仕事を抜けたとしても、それに不満を漏らす者もいない。
むしろ今や彼女と彼女の考えた壺は泥工たちの『代表』でもあるのだ。
日の当たらない賤業として、見下されてきた泥工から咲いた華である。



しかし、そんな泥工たちの期待と応援が、

ある日突然『裏目』に出てしまう事になったのだ。





  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★






事の始まりは、搬出が多少軌道に乗り出した、
雨期の中頃に差し掛かった現場の一角で起きた。

その日の雨はさらさらと弱く、現場の人夫たちにとっては有難い癒しの雨であり、
午前中の仕事がいつもよりはかどった彼等は、さらに地面を掘り進んでいた。

掘り起こされて地均しの終わった後方の水路は、すでに漆喰で陶壁の底が埋められ、
ほぼ完成した状態で放置され、水路の横には掘り起こされた土砂が積まれていた。

「おーい、昼飯にするぞォ」遠くから昼食の声が掛かる。

「よーし、じゃぁひと休みだぁ」「今日はけっこう進みそうだなぁ」
そう互いに話しながら、水路から上がろうとする人夫達の後方から、突然、



「がしゃん」と大きな音が聞こえる。



「!・・・あちゃぁ!」

振り向いた人夫達が見たのは、
そぼ降る雨で緩くなって、水路に「ざらっ」と崩れ落ちた土砂であった。
砂漠とは言っても当然、掘り起こした土砂の中にはそれなりの石もある。

「なんか、割れた音がしたぜ」「やべぇなぁ」

案の定、漆喰で固めて底に貼ってあった陶壁の何枚かが、
割れてヒビが入っていた。

「取り替えだな、こりゃ」「まぁいいさ。そこ何枚ぐらい」




      ☆★☆



ところが日が経つうちに、『そこ何枚』では済まなくなってきたのである。

掘り出した土砂が水路に崩れ込んで陶壁を割る。
何かの拍子に、道具が水路に落ちて陶壁を割る。

しまいに雨で足をすべらせて尻餅で陶壁を割る人夫も出てきた時点で、
すでに割れて使い物にならなくなった陶壁が、百を越えてしまった。



一週間ほど経った現場のテントでは、女が貴族に激しく詰め寄っていた。

「もうちょっと丁寧に扱ってもらわないと困るじゃない!
 どれだけ苦労して、あれを運び込んでると思ってるの!」

「土砂を水路横に放置するなと言う通達は、もう出したよ」

貴族が面倒臭そうに返す。

「土だけじゃない! 道具も、何も、上に落とさないでよ!」
「そんな約束はできないな、ここをどこだと思ってるんだ?」
「どこって、どこよ?」「工事の現場だ。分かってるのか?」

「現場だからって粗末に扱っていいって理屈はないでしょ!」
「そんな神経質になって工期が遅れたら責任が取れるのか?」

「何を・・むちゃくちゃな理屈じゃない、それ」
呆れ返って女が言い放つ。

「無茶苦茶じゃない。雨期が終わるまでに上げなきゃいけないんだ。
 これから日中が日照りにでもなってみろ。人夫が次々に倒れるぞ。
 それに人夫の中には、知り合いの案内人もいるんじゃないのか?
 彼等は雨期の間だけ手伝うって条件で来てるのを、忘れたのか?」

「〜〜〜〜〜〜〜・・・・」

「君が引き止めようがどうしようが、
 雨期が終わったら彼等は本業に戻ると思うぞ。
 そうなると、当然工期が遅れる。一番苦労するのは誰だと思う?」

「・・・誰なのよ」「工期が遅れれば、しかたないから予算を追加してもらわないとね」



「ちょっと待ってよ・・・それは、あんまりじゃない!
 御婦人は関係ないでしょ! 現場の問題なんだから!」

「そうだ。 だから何があっても工期は遅らせられない」
「だから陶壁は丁寧に扱えないの? それって変だよ?」

「変じゃないだろう、君は何も言わなかっただろ」「え」

「そんなに割れやすい、扱いに注意が必要なものだって、
 君は最初に一言でも言ったか? あれの作者は君だろ」

「・・そ、それは・・・」

貴族が痛いところを突いてくる。 女は黙り込んでしまった。

「この話を聞いた時に、そんな話はすれば良いじゃないか」

「だ、だって私が街に帰った時には壁が出来上がってたし」
「じゃぁ工場の親方が、水路にも使えると判断したんだろ。
 でも実際は、ちょっとの事で割れてしまう不良品だった」

「不良品ですってぇ!」これには女もカッとなって怒った。


「陶器なんだから! 叩けば割れるのは当たり前じゃない!」
「誰も叩いて割っちゃいない。物が落ちただけで割れるんだ」
「だから物を落とさないでって言ってるのが分からないの!」
「物が落ちたら割れると、君は言わなかったと言ってるんだ」

「そんなの、子どもでも分かりそうなもんでしょ?!」

「ほう。それが分かっていながら、なぜ君は、
 水路に陶壁を敷くのに反対しなかったんだ? 話はそこに戻るんだ。
 もっと丁寧に扱うべきものだと知ってるのは、誰よりも君なんだぞ?
 私を含めた現場の人間に、君が最初に注意すべきじゃなかったのか?」



「もういい! 割れないように作れば文句ないのね!」

とうとう女はそれだけ言い捨てて、テントを飛び出した。



      ☆★☆



血相を変えて工場に戻ってきた女が一直線に向かったのは、
工場の中の陶壁を作る『型』の行程を作業する泥工たちの場所だった。

彼女のただならぬ雰囲気に、周囲の泥工も何事かと近付いてくる。

開口一番、

「水の比率を変えて」と彼女が言った。


いつもの年輩の女が横に来て、顔を覗いて返す。

「どうしたのさ、そんな怖い顔してさぁ?」
「もっと割れにくい壁が欲しいんだって!」

「割れにくい壁?」
「現場で陶壁が割れ過ぎるのは、ウチの陶器のせいだって」

「なんだってぇ? ちょっと詳しく話しなよ」


彼女は一気に、現場で陶壁を『不良品』呼ばわりされた事を、
周囲の泥工にまくしたててしまった。
当然、気分のいい話ではない。むしろ「言い掛かり」である。
全員が激昂して叫んだ。

「そんな話があるかい! ウチの陶壁の何が不良品なんだ!」
「現場の連中が乱暴に扱ってるだけだろ! 冗談じゃない!」
「そんなの! 割る奴に弁償させればいいんだよ!」

泥工たちが口々に言う。

「そうだよ! 弁償だよ!」
「あたぃ達だって汗水垂らして作ってンだ!」
「割った奴の給金から差っ引きゃいいんだ!」

年輩の女が彼女の両肩を掴んで、激しく揺すりながら言った。

「それで行程変えるなんて、なに考えてんのさ。
 そんな事したら『不良品』ッて事、認めるようなもんじゃないか」

相手の勢いに、今度は彼女が気押されて言葉に詰まる。

「そ、そうだけど」
「『そうだけど』じゃないだろ。あんたの作った流紋なんだよ。
 あんたが自信持って渡さなくてどうするんだい。違うかい?」

今、この工場の泥工たちにとって「流紋」にケチをつける事は、
逆鱗にふれるようなものである。
それほど彼女達は「流紋」に誇りを持っていたのである。

おそらくは、それを考えた当の本人より、誇りに思っていたであろう。
その思いを、彼女は完全に読み違えていたのだ。




      ☆★☆




「割ったやつが弁償すべき」という泥工たちの意見は、
搬送に来た人夫を介して、現場にも伝わってしまった。
当然、今度は現場の人夫達から、不満が噴出し始める。

「弁償? なんだそりゃ? そんな気を使って作業しろってか」
「んな大事なもんだったら、なんだって水路の底に使うんだよ」
「誰だよ、こんなもん水路の底に貼るなんて言い出した奴は?」

だんだんと話が、変な方向に歪んでいく。

「あの工場の連中が、てめぇらの自慢の為に言い出したんだろ」
「壺が特産になったからって少しつけあがってるんじゃねぇか」

もともと人夫も泥工も、身分が低い点では変わりない。
領主の最近の様子が、明らかに泥工寄りであった事も、
人夫たちの不満を増長させる原因になったのは、確かである。

「泥工風情が、領主様に目をつけてもらったからって、
 鼻息が荒くなってンじゃねぇのか、ふざけやがって」

そんな意見まで飛び出してくる始末だ。

こういう声を横で聞いていたのが、
雨期の間だけ工事に参加していた、案内人達である。





「おかしらぁ、ちとヤバい雰囲気なんですよねぇ」
「うん? なにがだよ」


酒場で下っ端の案内人が元締めに、おおまかないきさつを話し始めた。

「・・・というわけなんですよ」
「何だそりゃ、全然統制が取れてねぇじゃねーか」

「そうなんですよね、だからあっしら姉御の事が心配で」
「姉御なんて呼ぶな馬鹿。まぁ力になってやってくれよ」
「おかしら、動かねえんですかい? そりゃ殺生ですぜ」

「俺が出張って何をしろってんだ、人夫に説教でもすんのか?」
「そうですぜ、人夫の連中に一つガツンと言ってやって下せぇ」

「馬鹿言うなっ、そんな真似したら、
 ますますあいつの立場が悪くなるだろっ。
 今回の件は、俺ぁ部外者なんだからな」

そう言って元締めが乱暴に、杯の酒をぐいっと飲み干す。
そのまま空の杯を「たん」と机に叩き置いて、考えた。

(らしくねぇなぁ・・・大丈夫かよあいつは・・)







現場での人夫達の不満は、搬出作業に非協力な態度となって女に跳ね返ってきた。
ただでさえ集めるのに難渋していた搬出の組が、ここ最近とみに集まらないのだ。

「え、これだけ?」

悪い日には四人二組しか集まらない時も出てくる。
しかもその四人は例の顔見知りの案内人達である。
彼等が申し訳無さそうに、頭を掻きながら答えた。

「へぇ、あっしらもさんざ周りに声をかけたんですがね」
「あまりしつこく誘うと喧嘩腰になるやつもいるんでさ」

「そう・・ありがとうね、明日は私も現場をまわるから」






しかしそんな彼女に、今度は工場の泥工たちが反論する。

「あんたがそんな『ぺこぺこ』頭を下げてまわる必要無いよ」
「そうだよ、これで作業が進まないってなら現場のせいだよ」

「でも。 そんな事言ってたら雨期が終わっちゃうじゃない」

彼女としては、これ以上事を荒立てたくない。

正直ここまで泥工たちを煽ってしまった自分にも、責任を感じていたのだ。
そんな彼女に、泥工の一人がぼそりと文句を言う。

「そこまで領主様に義理立てする必要なんかないじゃないか」

この台詞に彼女が反応して叫んでしまう。



「!・・そんなんじゃ、ないって言ってるでしょ!」



「・・ちょっと。どっちも止めないかィ。仲間うちで言い合ってどうすんだよ」
年輩の女が間に割って入る。工場内に気まずい空気が流れた。

「ほらほら、もういいからみんな作業に戻んな。さぁ行った行った」
その言葉に、泥工たちもぶつぶつ言いながら方々に散っていく。



「まずいよあんた、あんな声を荒げてどうするんだぃ」

困った顔で年輩の女が、彼女をたしなめる。
彼女も涙目で言い返すが、言葉に力がない。

「だって。 だって、このままじゃ・・」
「わかったから。やりたいようにやっておいで。工場はこっちが仕切るからさ」



      ☆★☆



現場を歩く足取りにも力のない女の頼みを、しかし人夫達は一蹴してしまう。
今までは困ったような顔で断っていた彼等だったが、
だんだんと断わり方、台詞の端々に悪意を隠さなくなってきた。


「ああ〜。あっしらは明日は向こうの穴掘りがあるンでさ、すいませんねぇ」

「・・・なんとか、人手を分けてくれないかしら」
「無理ですね。誰か、手が空いてるのがいるかぁ」

「ああ、ダメだねー」
「搬出なんて怖くて出来ねェや、給金が減るからなぁ」

数人からどうでもいいような返事と、
はっはっはと馬鹿にしたような笑い声が響いた。






そんな徒労の日々が続く。
彼女自身も、だんだんと声をかけるのが億劫になってくる。
しかし現状を打開する方法など、何一つ見つからない。

それはまるで終わらない苦役を続けるかのような毎日で、
しかも結果が出ているのか出ていないのかすら分からない。

それでも彼女は、歩みを止めるわけには、いかなかった。






ひどい人夫になると、女の目の前でわざと陶壁に尻餅を突く者もいた。

「おっとぉ」

すてんと、割れない程度に力を抜いて転んでみせるのだ。

「ちょ、ちょっとっ」慌てる女を尻目に、にやにや笑って立ち上がる。
「おお〜、おっかねぇおっかねぇ、給金が『むしられる』とこだったぜぇ」

ぐっ・・と彼女が唇を噛んだ。




    ☆★☆




そんなからかいを繰り返された、ある日の事である。


その日は珍しく雨が止み晴間の出た、雨期の中休みであった。
だがそんな天気も関係なく、彼女はまた一日中現場を歩き回り、
人夫達にからかわれ、嫌味を言われ、ぐったり疲れ果てていた。

もうそろそろ夕暮れで日も落ちてきたと言うのに、明日の搬出の目処が立たない。
声をかけてもかけても、へらへら笑って冗談で返す人夫達ばかりである。






そして、その日最後に回った夕暮れのある現場で、「それ」は起こった。






彼女の頼みに、相変わらず不真面目な対応をする人夫の横から、
おもむろに荒っぽい声が飛んだのだ。

「おい! テメェらいいかげんにしろよ。」

声と同時に人夫の襟を掴んだのは、案内人から来ていた別の人夫であった。
顔見知りの彼女の憔悴ぶりに堪りかねて、つい声を荒げて詰め寄ったのだ。

「なにを餓鬼みてぇな受け答えしてやがんだ? あ?」
「なんだてめぇ! 手ぇ離しやがれ!」「うるせぇ!」

「やめてやめて! ケンカしないで!」

女が止めるのも間に合わず、案内人の方が先に拳を出してしまった。
がんっと鈍い音がして、ふざけていた人夫が倒れ込む。




「がしゃっ」と、人夫の下で陶壁が嫌な音を立てる。




「!・・・やめて!・・」

その言葉も間に合わず、頬を押さえてゆっくりと立ち上がる人夫の下の陶壁は、
無惨にひび割れてしまっていたのである。




「・・・・・・・・・・」女がそのまま道路端にへたり込んでしまった。
「こ、これは俺のせいじゃねぇからな」頬を押さえた人夫が慌てて言う。
「・・・すいません! すいません!」案内人夫も青くなって女に謝る。

女が力なくふるふると首を横に振った。

「もういいから・・・差し換えて」

「へ、へい・・」

頬を押さえてふて腐れていた人夫も、さすがに悪いと思ったのか、
彼女の言う事を素直に聞いて、新しい陶壁を取りに行こうとした。




と。 その時。




「・・・・!・・・ちょっと、待って。血が出てる」「え?」

倒れて陶壁を割った人夫の、肘に血が滲んでいる。
遠目に見るとそれは小さな「十字」の傷に見えた。






「すっ」と、彼女に不思議な感覚が走る。

何だか見覚えがあるような、何だか大事なもののような、
しかし、それが何だか分からない、不思議な感覚である。
目の焦点が、合わない。 気持ちが「ぼんやりと」する。

ただ表面上は、すぐにその感覚の意味が分かったのだが。

(あの時と同じなんだ)




遠い昔の記憶が甦る。




老人の寺で、壺を割った時。 あの時と同じである。
割れてしまった陶器の壺と、自分の右手の十字の傷。

しかし、そこから先が分からない。
やみくもに鼓動が早くなる。



「ああ、これくらいは大丈夫でさ」「待って。そこを、動かないで」
「えっ?」

「お願い、ちょっとみんな、そのまま動かないで」

わけが分からずに、その場の人夫達も固まったように動かない。





女の胸がどきどきする。

(大事なんだ。 この瞬間は、何か大事な意味があるんだ)
(でもなんだろう? あの方は「卦が出る」と言っていた)
(「卦が出る」って、でも私にはそんなのわかりっこない)

しかし、気付いたのだ。 無駄に気付いただけなのか?
それとも何か、この卦に気付く意味が隠れているのか?

女が、ゆっくりと水路に降りる。




「ちょ、ちょっと大丈夫ですかい」人夫が手を貸してやる。

水路に降りた女は、割れた陶壁の傍らに座り込んだまま、
じっと陶壁のヒビを見つめて、口を押さえて何も語らない。

陶壁のヒビの意味など、当然、女には分からない。
それでも女は、じっと、黙って陶壁を見つめる。



陶壁は中心からひび割れて、その下の地面が見えていた。
真ん中の部分に、倒れ込んだ人夫の肘が入ったのだろう。
下からのぞいている小石に、かすかに血が滲んでいる。
この小石の先で、人夫の肘は傷ついたのだ。

女がその小石を持ち上げてみる。




その時、電流が走ったように、頭に何かが閃いた。







周囲の人夫が、少し驚く。

彼女がゆっくりと、水路の底ぎりぎりまで、
まるで頬が付くか付かないかのところまで、
かがんで顔を横にして降ろしたからである。

視線を水路の底に合わせるかのように、彼女が水路を覗き込む。

「あ、あの、髪が汚れますぜ」

案内人の人夫が気を使って声をかけるが、
それには構わず、女は別の指示を出した。

「ちょっと水路の上に上がって」「へ? へい」

人夫がごそごそと道路端に這い上がると、女が次の指示を出す。

「もっと向こうに歩いて。水路沿いに」
「へ、へい。こっちですかい?」
「うん、ゆっくりね。ゆっくり」

そろそろと案内人夫が歩き出す。
女はじっと、案内人と、水路の底に、代わるがわる視線を投げる。







 ―平坦なはずの水路の底の陶壁が、幾つか「わずかに浮いている」のだ。―
 ―他の陶壁に比べて、わずかに右に浮いていたり左に浮いていたりする。―






浮いていた陶壁の横に案内人夫が辿り着くと、女が声をかけた。

「とまって。」「へ。へい。」
「そこの陶壁に、何か印をつけて。何でもいいから」

「へ? へぇ、じゃ、割れないように気をつけて、と。」

案内人が、その足元の陶壁の上に、そっと道端の石を置いた。
すると、

「え! え! ちょっと! 何するんですかい!」
周囲にいた人夫達が驚いて声を出した。

女が腰をかがめたまま、そろそろと四つん這いで陶壁の上を進み出したからである。
狭い水路の底に沿って、手と膝を泥に汚しながら、構わず前に這って進んでいく。

ぼけっと見ている案内人夫の所まで進んで辿り着いた彼女が、
印の付いた陶壁を両手で押え、軽く体重をかけると、





かすかに、「ぐらぐら」と揺れた。

(・・・・・・・・)




今度は、まだ乾き切っていない漆喰に指を差し込んで、
その陶壁を「ばりっ」と剥いで、ゆっくり持ち上げた。

「あ、姉御っ」

思わず案内人夫がそう呼び掛けたが、その声も聞こえていないようだ。




(・・・・やっぱり・・・・・)

陶壁の下には、小石があった。
これもまた指でつまめるほど小さな石だ。




片手で壁を押さえながら小石をつまみ出し、もう一度ゆっくりと陶壁を降ろす。
さらに両手を付いて、また軽く体重をかけると、今度はまったく動かない。

少し強く体重をかけた。それでも陶壁は、びくともしない。
先ほどのぐらつきは、どこかへ消えてしまったかのようだ。

(・・・・・・・・・・・・・)

彼女が両手を拳に握って、上にゆっくりと振り上げる。

鼓動が早くなる。 




思いきり、そこから、


「がんっ!」と両の拳を陶壁に叩き付けた。
「姉御っ! なにするんでさ!」案内人夫が叫ぶ。


「いっ・・・たぁい」じぃいいんと痺れるような両手の痛みに、思わず声が出る。
が、陶壁はびくともしない。 頑強に、ただただしんと静まり返ったままである。



痛みの残る手のひらで、彼女が、陶壁の表面を撫でて泥を払う。
そこには『流紋』独特の、きれいな赤褐色の紋が広がっていた。

ぺたぺたと軽く表面を叩く。 壁は、沈黙している。

またゆっくりと彼女が顔を伏せて、水路の底から前方を覗き込む。
しばらく先にも、まだ幾つか点々と『浮いている壁』が見えた。
もう日が沈みかけて、その有り様はシルエットのように薄暗い。
が、凹凸ははっきりと見える。見えると言うより、感じる。

その光景は「言葉」のようでもあったし、「文字」のようでもあった。


もう一度、目の前の陶壁を両手で軽く押さえる。
ぴくりとも動かなくなった壁だったが、それもまた「言葉」のようであった。




(語ってたんだ・・・教えてくれてたんだ・・・・) 




顔を上げて、その場に座り込んだ彼女が思う。
全身から力が抜けたように呆然としているが、
そこにはすでに、憔悴の色は感じられない。

ゆっくりと、しかしはっきりと、こころが震えていく。

(ずっと語っていたのに・・その言葉に気付かずに)
(私は、人の言葉にばっかり振り回されていたんだ)

(そうだよね、この子たちが不良品のわけないよね)

壁は沈黙したまま、鈍く流紋を輝かせていた。




「・・・・さ、さ。手を取って。こっちへ」

案内人夫が道端から差し出した手を、女が取って、
ぼんやりとしたまま道路端に這い上がったその時。

「!!!」 

女は両手で顔を覆って、固まったまま息を呑んだ。
こんな事が本当にあるとは信じられなかったのだ。




      ☆★☆




そこは、見覚えのある場所だった。

彼女が這い上がったその場所こそ。

遠い昔、老人との別れ際に、跪いて泣いた『その場所』だったのである。



時は夕暮れであったが、風景は鮮明に甦ってくる。
道端に見える服飾の店も、そのままそこにあった。
店の前で片付けをしているのも、あの店主である。
北の砂漠に向かう通りの道も何も変わっていない。


ただその道端に、水路が掘込まれている事を除いては。
それだけが風景の違いであった。他は何も変わらない。




老人の言葉を、彼女ははっきりと背中に感じた。




 ―お主が『しあわせ』を全て取り戻した時には―
 ―空には『しるし』が現れるであろう―




割れそうに高鳴る鼓動を押さえるように、女は胸をぎゅっと掴み、
しかし不思議な確信を持って、ゆっくりと、

道を振り返った、その瞬間に。





まるで、彼女が振り向くのを、待っていたかのように。

南天に「流れ星」が流れた。

そして、もう一度流れた。

最後に、もう一度流れて、消えた。






「・・・・・・・・・・・・」

何一つ、言葉が出ない。

たったそれだけの偶然と、夕暮れの風景が、ただ静かに、
しかし圧倒的な『言葉』となって彼女の胸を打ち据える。
この風景の意味が分かるのは、今、この世に自分しかいない。



目の前の世界が、今「自分一人だけ」に語りかけているのだ。



涙が溢れそうになるのを、しかし彼女は、ぐっと、こらえた。
この風景を涙で曇らせるのは、あまりに惜しいと感じたのだ。

自分が「何をしなければならないのか」は、はっきりと理解した。
それが「どのような結末を迎えるのか」は、まだ何も分からない。

しかし、この時、

彼女は、自分自身が「試練を抜けた事」を確信していた。


(やれる事を、やらなきゃいけない)


そう決意した瞬間、こらえていた涙が、ひと粒だけ、こぼれた。








  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★








それはまるで、魔法のようであった。


翌日からの彼女は、工場での作業を早めに終わらせると、
年輩の女に後を任せて現場へと足早に出かけていった。

「じゃぁ、あとお願いね」「え、ああ、まかせときな・・・?」

彼女の様子が、雰囲気が全く違うことに、
周囲の泥工たちは全く合点が行かない。
なにせつい先日までは疲れも極まったような顔をしていたのだ。

当然気になるので、搬出に来ている人夫に話を振ってみる。

「どうしたんだい? 割り振りが上手くいってるのかい?」
「いやぁ、それは相変わらず集まりが悪いんですけどねぇ」
「え? それであの子は、現場に行って何をやってんだい」

「それがですね、水路の中をごそごそ這い回ってんですよ」

「なんだってぇ?」 泥工たちが、呆れる。





同じように現場の人夫達も不思議がっていた。
不思議というより、あの態度が薄気味が悪い。

「何をやってンだありゃぁ、気でもふれちまったか?」
「でもよぉ、陶壁を貼った場所ばかり這い回ってるぜ」
「搬出の誘いも、めっきりやんなくなったみたいだぜ」
「へ? そうなのかよ? それで壁が足りてるのか?」

人夫達が口々に言い合う中で、一人がぼそっと核心を突く。

「それがよ、なんだか不思議なんだが」「何かあったのかよ」
「割れねぇんだよ。 おかしいと思わねぇか?」「なにが?」


「壁だよ。 陶壁が、前みたいに割れねぇんだ、簡単にはよ」


「・・・お前そんな、おっかねぇよ」「いや、でも本当だぜ」
「偶然だろ。 それとあの姉ちゃんと、関係あるってのか?」
「そんな事、俺に聞くなよ、自分で聞きゃぁいいじゃねーか」

もちろん、そんな事が聞けるわけもない。
さんざん搬出を拒んできた人夫達なのだ。
今さら話し掛けるのをためらうのも、当然である。



中には反発して、わざと悪びれる人夫も出てきた。

「あんなの嫌がらせに決まってるじゃねぇか。
 陶壁だって前と何にも変わっちゃいねーよ」

そう言って、道路端のこぶし大の石を、
足で弾いて水路の中に投げ落とした。

「ふん、どうせ弁償すりゃいいんだろ」



ごんっ「へっ?」

鈍い音がして、陶壁の上に落ちた石が軽く跳ねて、ごろごろと転がる。

石が落ちた陶壁は、ヒビ一つ入っていない。
わずかに表面の模様が、剥げただけである。



「・・・そ、そんなわけねぇだろ!」

男がキレてでかい石を両手に抱えて振りかぶった。
「わぁっ とめろとめろ!」「そんなの割れるに決まってるじゃねーか!」
周囲の人夫達がばたばたと慌てて止めに入る。

そういうちょっとした騒動もあったが、
どうやら人夫達にも、彼女の行為の意味が浸透し始めた。



明らかに彼女は「何か特別な事」を行なっているのだ。
しかし、それがいったい何なのかが、全く分からない。

確かなのは、壁の強度が確実に、そして格段に上がっている事である。

相変わらずぱらぱらと雨の降る時期なので、
道路の土砂が「ざらっ」と崩れ落ちる事も、たまには起こる。

しかし、割れない。 

土砂の中に多少の大きさの石が混ざって落ちてきても、割れない。
道具が上に落ちても人が尻餅を付いても、以前のように割れない。

不思議がって「ごんごん」と拳で底の陶壁を叩く者もいたが、
何も変わっている様子もない。だからなおさら不思議である。





「・・・これが本当の堅さだったのかも、知れねぇなぁ」

人夫の一人が呟く。


こうして現状を考えれば、逆に以前が「割れ過ぎ、割り過ぎ」だった事に、
人夫達もようやく気付き始めた。

陶壁には、なんら問題は無かったのだ。
自分達の作業に、何か問題があるのだ。

しかしその問題を、彼女は一言も口に出さずに、自分で解決している。
口に出すはずもない、あれだけ言葉に耳を貸さなかった人夫達である。

「そりゃあ・・・俺達も悪かったけどよぉ」
「何か一言言ってくれりゃいいじゃねぇか」

「へっ、おめぇらが餓鬼みてェな駄々こねてばかりいたからだよ」
そう悪態を付くのは、現場にいる案内人夫の一人である。

「そんなに言うなら、おめぇ行って聞いてこいよ」
「な、なんで俺が聞いてこなきゃいけねぇんだよ」
「だって俺らは、姉チャン怒らせちまってるしさ」

「怒ってなんかいねぇだろー。 そんな感じじゃなかったぜ」



しばらくは、人夫達の間でそんなやり取りが続いたまま、数週間が過ぎた。




    ☆★☆




彼女が水路の中を動き回るのは、おおよそ夕暮れあたりまでである。
完全に陽が沈んでしまうと、凹みになった水路の底は真っ暗なのだ。
しかも今は雨期で天気が悪く、陽の陰りも早い。


だが距離が距離、枚数が枚数なのだから、
できる事なら陽の沈んだ後でも、もう少し作業を続けたいのが本音である。
陶壁の傾きが見えるぎりぎりの時間まで、今日も彼女は作業を続けていた。

陶壁の中には初期に貼付けて、もう完全に漆喰が固まってしまった物もある。
そういう物の中にすら、両手で押すと「かたかた」と左右に揺れる物があり、
しばらく揺らし続けると簡単に四辺の漆喰が剥がれ、ごそっと壁が持ち上がる。

(これじゃぁ、ダメに決まってる)

ゆっくりと持ち上げると、やはり下に数個の小石が残っている。
持ち上げた陶壁を水路の横に立て掛け、下の石を丁寧に拾った。
目の前の五十センチ四方の地面を、さっさっと自分の手で払う。
雨でぬかるんでいるので、地面の泥が漆喰の代りをしてくれる。

しばらく手で撫で回しているうちに泥が均一にならされていく。
きれいに平坦にしてから、また陶壁をかぶせてたんたんと叩く。
そして両手でぎゅっと押す。 壁はぴくりとも動かなくなった。


「ふうっ・・」


さらさらと降るとは言っても、やはり雨の中の作業である。
一日にそういくらも進むわけではない。

束ねた髪も、顔も、服も、手足も。 泥だらけで、見る影もない。
しかし今さらそんな事が気になるわけもなく、ぺたっと水路に尻餅を付く。

雨脚も緩く暖かい雨なのがありがたい。 天を仰いで深呼吸する。
ただ、ずいぶん辺りは暗くなっていた。

「今日はもう、このくらいかな」 独り、そう呟く。





「何が『もうこのくらい』だって?」「きゃぁっ」

女が仰天して道端を見上げた。 真っ黒なシルエットは、元締めの姿だった。


「びっくりしたっ。 おどかさないでよっ」
「そんな泥だらけで水路にいるおめぇの方が、びっくりだぜ。
 何やってんだ、いったいよ。 ウチの連中が心配してたぜ」

そう言って元締めが、彼女の前に回り込んで水路に足を降ろそうとした。

「あ! ちょっと待って!」「え! ど、どうしたぃ」

彼女がまた、水路の底に顔を近付けて、じっと観察する。
そしてそのまま元締めに軽く手を降って答えた。

「そこはダメ。 もうひとつ向こうの壁の上に降りて」
「え? あ、ああ」

駄目と言われた陶壁を挟んで、彼女と元締めが水路の中で向き合う。

「・・・・これがダメって、何だ?」「見て。もっと頭を下げて」
「うん?」

そう言われて元締めが女と同じように、地面ぎりぎりまで視線を落とす。
図体がでかいので難渋する。それでも這いつくばるように頭を降ろすと、



「・・・・これ、傾いてるのか?」「うん。 手で上から押してみて」



うつ伏せになったまま身体を片手で支え、もう片方の手で、
元締めが陶壁の上を押さえてみると、





ほんの僅かに「かくかく」と揺れる。 「!」




「わかる?」「・・・なんか、不安定だな」
そう言いながら揺らし続ける、と、隅の漆喰がばらばらと剥げてきた。

「うぇっ、こりゃいけねぇや。 取れちまうんじゃねぇか?」
「取れるよ、持ち上げてみて。 簡単に浮くから」

二人が座り直して、元締めが陶壁を持ち上げた。
彼女の言う通り簡単に剥げる。下には数個の小石があった。
それを彼女が手でつまんで取りのける。地面の泥を撫でる。

「・・・なるほどなぁ」元締めにも、彼女のやっている事の意味が分かってきた。
「・・・いいよ。降ろして」そう言われて元締めが、元に位置に陶壁を降ろした。

降ろした上から、ぎゅっぎゅっと体重をかける。 壁は、もう揺れない。





軽くがんがんと元締めが拳で叩いた。
もちろん陶壁はぴくりともしないが、
それを見て彼女が可笑しそうに言う。

「なんだか、誰でもやる事は同じなんだね」「え? そ、そうか?」
「うん、あたしも最初気付いた時には、そうやってかんかん叩いた」

「これで、もう割れねぇのか」
「うん、下が安定してると割れない」

「そうだよな、もともとがあの『流紋の壺』だもんなぁ・・・
 ウチの連中が『何の法力を使ってンでしょうね』とか、言ってたぜ」

「ええっ そんな、魔法使いじゃないよ、あたし」彼女が笑う。

「・・これお前、自分で気が付いたのか」「うん」
「で一枚一枚、自分で確かめてるのかよ」「うん」

彼女が嬉しそうに頷いた。

(こいつってやつぁ・・・ほんとうに・・・)
元締めが、そんな泥だらけで笑う彼女を、じっと見つめる。



だいぶ暗くなった水路で、二人が座り込んだまま話す。
二人の上には、暖かい雨がさらさらと降り込んでくる。





「周りに言えばいいじゃねぇか。 いざこざがあったから言いにくかったのか?」

「ううん、そんなんじゃなくって・・ただ、なんて言うんだろう」
「なんだよ」




「もったいないような気がして」「はぁ?」
「自分でやらないと、もったいないような」




そう言って彼女は照れくさそうに、濡れた手で鼻をごしごしこするが、
逆に鼻の頭に泥が付いてしまった。

「な、なんだそりゃ。 どういうことだか全然わかんねーよっ」
「わかんなくったって、いいのっ。 私がそう思うんだからっ」

そぼ降る雨の中、二人がお互い可笑しそうに、むきになる。



「周りに説明しなきゃ、わっかんねーだろ。 気がふれたなんて言う奴もいるんだぜ」
「言いたい人には言わせとけばいいじゃない。 私全然気になんないもん、そんなの」

「おめーが気にしなくたって、周りが心配するじゃねーかよっ」
「あははっ 私の気がふれたって思ったの?」「思うか馬鹿っ」
「だったらいいじゃない」「よくねぇっ。 わかんねぇかなぁ」

「わかんないよ」「・・あのな、おめぇ、俺のかみさんになれ」





「・・・えっ」


「あ。 いや、その・・・なってくれ」 あまりに唐突に元締めが言った。




    ☆★☆




時間が、急にゆっくりと流れ出す。沈黙が続く。


「・・・あ、あれ、俺ぁ何言ってるんだ? いや、でも、本気だ、うん」
元締めが無骨な手で顔を覆って、それでもたどたどしく言葉を続ける。





「・・・わかんないよ」やっとそれだけ彼女が言う。


「あ、うん。 ・・・えーと。
 お前が好きだ。 俺の嫁さんになってくれ」

もう一度元締めが、きちんと言い直す。





「どうして、今そんな事いうの」「思ってたのは、ずっと思ってた、うん」
「だから、どうして今いうの?」「いけないか?」

「だって。 ぜんぜん、そんな話じゃなかったし、今は」
「今言おうと思ったんだよっ そんな事って、ないか?」

「あるけど。 あるけど。 あたし、こんな格好だし。」
「関係ねぇ」

「だって髪だって洗ってないし。 顔も泥だらけだし。」
「関係ねぇって」





雨がぱらぱらと降る中で、彼女が言い続ける。 弾けたように、言葉が続く。



「だってあたし、ずっと、ずっと、こんなとこうろうろして。

 汚れて、泥だらけで。 周りから変なやつだって言われて。
 ひとりで、石持ち上げて、掃除して、そればっかし続けて」



それもまた関係のない話なのだが、言葉が止まらない。


「人の言う事ばっかし気にして。 人も上手ぐ使えなぐで。
 馬鹿にされで。 どうじでいいがわがらなぐで」


「・・・・・・」


「こごろぼぞぐで。 なぎだいげど、なぎだいげど、がまんじで。
 だえにも、なんにも、いえなぐで。
 いえにがえっでがら、ずっど、ずっど、ひどりで、ないでで。

 づらがっだんだよ、ほんどは・・・すっごぐ、づらがっだんだぁ」

「・・・・・・」

もう涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女は話す。

今まで我慢してきた涙が、ばらばらとこぼれ落ちて、
今まで言いたくても言えなかった言葉のかたまりが、
一気に噴き出してきた。





「・・・よく、がんばったな」「・・・ぅん ぅん・・・」

「こんな時にまた、面倒な事を言っちまったな、俺は」

元締めが、ばつが悪そうに頭をばりばりと掻いて言う。
彼女はふるふると首を横に降った。

「けど、本気だからな。 返事はいつでも、いいけどよ」
「・・・ぅん・・・」


しばらくの沈黙が続く。 やがて元締めが言葉を続けた。


「それとは別に。 明日からはこの仕事、ウチの連中も手伝わせる。
 俺が出張ると話がややこしくなるから、言い聞かせとく。いいな」

まだ涙の乾かない顔で、女が数回、うんうんと頷いた。







そんな二人の様子を、道の反対側の陰から、貴族が、見ていた。
口元に、薄い笑いを浮かべて。







   ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★






その翌日。 作業場の陶壁の上を、彼女の代りに数人の人夫がうろついていた。
もちろん案内人の人夫たちである。 彼女と同じように水路を突っ伏して、
じりじりと不器用そうに這い回り、やがて一つの陶壁の前で停まって呟く。

「ああ、ほんとうだ。 おかしらの言ってた通りだなぁ」

僅かに浮かんでいる陶壁を上から押すと、ゆらゆらと不安定である。
ゆっくりと持ち上げると案の定、その下には幾つかの小石があった。



一般の人夫たちが、その様子を見ていぶかしげに尋ねた。

「なにやってんだおめーら? 姉チャンのが、うつったのか?」
「まぁいいから、ちょっとこっちきて、向こうに回ってみなよ」

そうやって午前中のうちに、数人からまた数人へ、
彼女が見つけた「陶壁の秘密」が伝わっていく。


「ほんとーだ。 石取ったら動かなくなっちまった」
「だろ? これを一個一個やってたんだぜ、姉御は」
「そんなことなら、もっと早く言ってくれりゃぁよ」

「言ってたら、やったか? また馬鹿にしてたんじゃねぇか?」

「うーん・・まぁ、そーいうなよ。 俺も手伝うからよぉ。
 そーいや今日は、姉チャンはまだ現場に来てねぇんだな」





彼女は、現場近くのテントに呼び出されていた。

「どういう策を打ったか知らんが、順調に進み出したみたいだな」

机の向こうに座った貴族が、特に褒める様子もなく言った。
女も別段、この男に評価してもらうつもりもなかったので、
さっそく要件を切り出す。




「で、今日は何の用で呼び出したの」

「次の仕事の話だよ」「え?」


「東に大きな都があってな、そこで水路建設の話が持ち上がってる。
 陶壁を貼る方法は、私達が作る水路の大きな「売り」になるから、
 君も一緒に来て、向こうの領主達の前で説明してもらう事になる」


『私達』という言い方が、彼女の勘に触る。

「あの、言っとくけど」「うん?」



「私は他の都に行ってまで、この仕事、続けるつもりはないから」



彼女はその言葉に、貴族が少しは反応すると思っていたのだが、
貴族は特別態度も変わるふうでもなく、こちらに視線を投げた。

「予想通りの言葉が返ってきたな」
「そう。 それなら話は早いわね」

「もう昔の生活に戻るつもりは、ないということか」「うん、全然」
「今の泥まみれの暮らしで、満足だと? そういう事か?」

煽るようなその台詞にも表情も変えずに、彼女が数回頷く。

貴族の目に、明らかに敵意の光が宿った。



「・・・では、違約金を支払ってもらわないとな」



「違約金? 私が何を契約したっていうの」
「いやいや、君は別に心配しなくていいよ」

そう言って貴族が緩く笑う。 彼女の顔が、だんだん険しくなってきた。

「アンタ、まさか・・・また御婦人に何か妙な真似を・・・」
「君は本当に、ここの領主に買われているんだなぁ、うらやましい話だ」

「どういう事! 何をしたのよ!」


「何もしていない。 そろそろ工事も終わりそうだから、
 正式に後見人になって頂きたいと、話をしただけだよ。
 ・・・つい、今朝の話だ。

 君の身柄と、今後の行動には、すべて責任を取ると、
 はっきり契約してもらった。 そりゃ喜んでいたよ。
 これで君に『恩返し』ができるってね」



彼女の頭に血が昇る。 この男は、またそつなく先手を打っていたのである。



「何で、何で、ワタシ抜きでそんな話を進めるわけ!」

彼女が激昂する。 もう今となっては、はっきりと理解した。

この貴族は自分と、自分の人生を、
金と身分と契約で『買い占める』つもりなのだ。

この男とは、ここで切れていなければいけない。
このままでは『身分ある生活』とは名ばかりで、
結局この男の『奴隷』である事と変わりがない。



「君は忙しそうだったし、何も進めて悪い話じゃないからねぇ。
 誰が聞いても良い話だ。 東の都に陶壁の水路ができる話も、
 とても喜んでいたよ・・・しかし、

 君が降りると言うなら! この話は『無し』だ!」


突然、貴族の態度が豹変し、言葉が強くなった。


「東の都の水路建設の話も『無し』だ! 今後の計画も全て練り直しだ!
 すべて金で責任を取ってもらう! 君が一生働いても支払えない額だ!」

「・・・この事業は、もともとあたしのお金で始めたんじゃなかったの!」

「ああ、その分なら差引で払っても良いよ、今すぐにでもね」

貴族が鼻で笑う。今さらその程度の金で何を言うとでも言いたげな態度である。

彼女がぎりぎりと唇を噛んだ。ここは、絶対に引けない。
しかし、どういう手を打てば良いのか、全く分からない。





その時である。





「取り込み中だったかな」

テントの入口で声がした。





    ☆★☆





「!・・・・・・」振り向いた彼女が驚く。

入口には、寺の老人が立っていたからだ。手には布包みを抱えている。


「誰だあんたは。 部外者は立入禁止だぞ」貴族が乱暴に言う。


「まぁそんなにかりかりするな。 この娘の保護者・・・で、いいのかな?」
後半は彼女への台詞である。彼女がうんうんと頷いて尋ねた。

「どうされたのですか、突然」
「いや久々に北の都に出かけたら、昔の馴染みと会うてのぅ。
 大目玉を食らってしまったわ、はっはっは」

「大目玉?」「うむ、服を売るとは何事かと叱られてしまったわぃ」

そう言って老人が包みをぽんぽんと叩いた。
女が合点が行く。あの時店に売りに出した、あの法衣の事である。

「す、すみません。 本当なら私が買い戻すべきものでしたのに」
「これ。 あの金は貸したのではないと言ったじゃろうが。
 まぁそんなに気にするでない・・・さて」


老人が薄目を開いて、貴族に向き直る。 しかしその眼光は、鋭い。


「お主が、この娘の話しておった貴族とやらか? ちと話があるのだが」


「今は大事な仕事の話をしているんだ。 養父か何かは知らんが、
 内輪の話は仕事が済んでからにしてもらおうか」

「そんなに手間はかけん。 二、三、質問するだけじゃ」
「私に? 何の権利があって、そんな口を聞いてるのだ」


馬鹿にしたように貴族が言い放つ。しかしその言葉には構わず、
老人が机の上で包みを解き始める。

「年寄りへの口の聞き方も知らんのか」

老人は、ばさりと解いた包みの中から法衣を取り出した。
女もはっきりと記憶している、美しい刺繍の入った法衣である。





と。 それを見た貴族の顔色が変わった。

老人が法衣を簡単に羽織り、前で揃えてそのまま椅子に座る。

「これで文句なかろう、若造。
 ・・・座れ。 質問する事があるのだ」




驚いたのは、彼女である。
高飛車であった貴族が沈黙して大人しく席に付いたからだ。
ゆっくりと椅子に腰掛けた貴族の顔は、唇が蒼ざめている。


「さて・・・この娘の財産をだまし取ったと言うのは本当か?」
いきなり老人が本題に入った。

「それは・・・私と彼女の問題」「質問に答えよ。 本当か?」

「だまし取ったのではない。 数年、名義を変更しただけだ。
 その数年を待たずに、彼女が自分で勝手に出ていったのだ」

「名義を書き換えたのは、なぜなのかな?」
「当時、彼女の財産には、債権が付いていた。
 その債権を無効にして、やり過ごすためだ」

彼女が横で、じっと聞いている。

「ほとぼりが冷めた頃に、また財産の権利を彼女に戻すつもりだったのかな?」
「そうだ。 その時期を待たずして、この女は出ていったのだ」

「それはアナタが他の女に」彼女が横から口を出すのを、老人が手で制する。

「痴情のもつれが原因で、この娘が、姿を消したと言うのだな」
「そうだ! 男女の個人的な問題だ! 法僧の出る幕は無い!」


貴族が堪りかねて叫ぶ。 「!」 彼女もそこで合点が行った。




この法衣は都で裁判を行なう法僧会の法衣なのだ。




    ☆★☆




「・・・都で、いろいろと調べさせてもらってのゥ」

老人が続ける。 貴族の態度が急に落ち着きがなくなってきた。
目がきょろきょろと泳いで、老人と視線を合わせようとしない。



「お主が、この娘の財産の名義を移したと『同じ時期』に、
 この娘の『債権』の一部が精算されておるのは何故かの?」



「えっ?」反応したのは彼女の方である。 言っている意味がつかめない。


「お主、娘の財産を『転がした』な」「ば、ばばっ、ばかな事を」
「一部の債権者と結託して娘の財産を『占有』したのじゃろう?」


「・・・・・な、ん・・・ですって・・・・・」彼女の声が、震える。

老人が、彼女に向き直って話し始めた。


「姑息な債権人が良く使う手段なのじゃよ。 

 法を施行して財産を回収しても、結局は複数の債権人で割らねばならんからな。
 自分の取り分は減るわ、債権を割るのに時間がかかるわで、何も良い事がない。
 そういう時に人を使って名義を他所に移動した後、その者と山分けするのじゃ。
 他の債権人を出し抜いてのぅ」


「デ、デ、デタラメを言うなっ! この女はな!
 自分から、出て行ったのだぞ! 私が追い出したんじゃないんだ!」

貴族が叫んだ。 彼女も続けて老人に尋ねる。



「・・・でも、この男は『女に金を使った』と」

「芝居に決まっておるでは無いか。 痴情絡みなら法僧が動かぬからの」
そう言って老人が笑う。




「芝居?」 「な! 何の根拠があってそんな事を言う!」

老人がもう一度、貴族に向き直り、今度は強い口調で言い放つ。

「相手の女は見つけておるぞ!
 金を払って雇ったであろう!

 当時の商売女で羽振りの良くなった者を当たれば、
 見つけるのは、さほど手間でもなかったわ」




がたがたと全身が震え出したのは、むしろ彼女の方であった。
「・・・そんな、そんな真似を・・・・このオトコは・・・」

貴族の方は、額に滲んだ脂汗をせわしなく拭くばかりである。
そんな落ち着きのない様に止めを刺すように、老人が続ける。



「痴情のもつれとなれば、確かに法僧の出る幕は無い。
 もともとそれが狙いで、娘を『いじめた』のであろう?
 どうにも耐え切れずに、自分から逃げ出すようにのぅ。
 
 が、それが最初から仕組まれた事であるならば・・・
 これは明らかに『詐偽』であるな」


貴族はうつむき、何一言も発しなくなった。
彼女はただ、がたがたと拳を震わせている。




ややしばらくして、貴族が言った。

「いくら払えば、いいのだ」「うん?」

「この娘に、いくら払えばいいのだ?」




かぁっと激昂して彼女が叫ぶ。

「・・・そんな事で! お金でカタが付くと思ってるの!」
「じゃぁ! どうしろというのだ!」

「どうもせんでええわぃ、早く都に帰った方が、良くはないか」
落ち着いた声で老人が言った。

その言葉に、貴族の顔面が真っ青になって、唇が震え出した。




「まさか・・・この話を」

「おお、もちろん、都の法僧会に通しておいたぞ。
 今頃、お主の爵位をどうするか、審議が開かれておると思うがな」



がたん! と大きな音を立てて貴族が跳ねたように立ち上がる。

「な! な! な! なんて事を!」
「だから教えてやってるではないか。 最後の情けじゃよ。
 今帰って申し開きすれば、まだ間に合うかも知れんなぁ」

もうまったく焦点が合わぬがごとく、貴族はばたばたとよろけながら、
テントの入口に駆け寄り、傍らに居た彼女の肩を乱暴に押しやって叫んだ。

「どけ!」

どんと女を突き飛ばし、貴族はテントを駆け出して行った。





呆然としていた彼女が、はっと我に帰って叫ぶ。

「ちょっと! 待ちなさい!」「よさぬか」 老人が静かに引き止める。


「でも、でも」

「法では裁けぬのだぞ。
 お主が自分で都を出ていったのは、間違いない事だからのゥ」


「そ・・・それは、そうですが」

「放っとけば良い、どうせ何をやっても無駄だわぃ。
 法では裁けぬが、貴族にあるまじき行為だからの。
 爵位剥奪が決まれば仕事も続けられはせぬだろう。

 あまりに欲目を追うからじゃ。 哀れな話よ」


老人が淡々と答える。




    ☆★☆




女は、ただただ急な事の成り行きに、まだこころが付いていかず、
ぼうっと、貴族の出て行ったテントの入口を見つめていた。

しばらくして、やっと、こころが動き出す。


(わたしは、死ぬところだったんだ)
(こんな、つまらない事で、死ぬところだったんだ)

(なんて、馬鹿な真似をするところだったんだろう)




その傍らに、老人がやってきて話す。

「お主も、良くない面はあったのだぞ」「・・・え?」



「そのように債権者から逃げて回っておって。
 さっさと手元の金を手放せば良かったのだ。
 そうすれば、あのような男に狙われる事もなかったろうに」



「・・・・そう、そうですね・・・・どうしてなんでしょう」

「どうしてなのじゃろうなぁ。 今のお主を見ている限り、
 そのように金に執着する風にも見えなんだが」




老人は答の分かっている教師のような口ぶりである。


テントの外には、完成した水路が見える。
今日は雨も降らず、雲間から晴間がのぞいていた。
もうそろそろ、雨期も終わりなのだろう。



その水路からひょこっと人夫が顔を出す。 案内人の人夫である。
今までそこに屈み込んで、陶壁の一つ一つを調べていたのだろう。

その彼が、こちらに気付いて、笑って軽く手を降った。
彼女も少し笑って、手を振り返し、

その振り返した手のひらを、じっと、見つめる。
指の根元の「十字の傷」も、もう消えかけている。





「あの時は・・・・独りでしたから」 手のひらを見ながら女が答えた。

「うん?」
「独りでしたから・・・今とは、違いました」


老人が軽く頷いて言う。

「今は、独りでは、ないのだな」
「はい、独りでは、ありません」 女が、答えた。






「そうか。 しあわせに、なったのぅ」 「はい」

老人が満足そうに、また、頷いた。





『欲望は 時に運命を見誤らせる
 運命は 決して人を見捨てない』






  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★




結局それから貴族が、街に帰ってくる事は、なかった。

しかし工事は、すでに終わりに近付いていたので、
彼女を中心に、何とか最後まで辿り着く事が出来たのである。

完成した水路に始めて水が通った日も、良く晴れた日で、
水底に見える流紋の陶壁も、きらきらと涼やかに美しく、
老婦人は大いに喜び、その報酬を彼女に与える事にした。


しかし、彼女がそれを拒否した。

「私だけが、すべての報酬を受取るわけには、いかないんです」

その言葉と共に、彼女は婦人に、彼女と貴族の過去を初めて全て話したのだ。


「・・・・・そういう事があったのですか。
 もっと早く話して下されば良かったのに」

「申し訳ありません」
「そうね・・でも、言えなかった気持ちも分かります。
 では別の形で、あなたには報酬を支払いましょうね」

そう言って婦人が行なってくれたのは、
北の都にて彼女が残していたすべての債権を調べ上げ、
それを完全に終わらせる事であった。

こうして、彼女の過去の精算は、何もかもが終了したのである。
もちろん貴族に奪われた分は戻ってはこなかった、が、

これも当たり前のように、今さら彼女がそれを求めるつもりもなかった。




    ☆★☆




日射しが照りつける古寺の畑で、
老人が鎌を手に草刈りをしていた。
老木の上では、ちちちと小鳥が鳴いている。


幾つかの雑草には小さな花が咲き、蝶が飛んでいたので、
その草は刈るのを控えて黙々と、小一時間ほど刈り込んで腰を上げる。

「ふぅ」

額の汗を拭き、ふと見ると、
先ほどの蝶が本殿の中に「ぱたぱた」と飛び込んで行った。

たんたんと鎌の柄で肩を叩きながら、ひと休みがてら、
本殿の日陰へ足を進めて中を伺うと、


蝶は祭壇の『左横』に据えられた、もう片方の陶器の角に停まっている。



「ふむ、良い卦だわぃ」



その時、遠くからぱかぱかと馬のひずめの音がする。

音に気付いて老人が庭先に出てみると、
馬から降り立っていたのは、


彼女と、無骨な顔をした元締めである。
大きな図体を小さくして、元締めは照れくさそうに、髪の襟首を掻いていた。


(おやおや)老人が笑った。


二人がほぼ同時に、老人に挨拶する。

「お久しぶりです」
「あ。 は、はじめまして」元締めは、ますます小さくなった。


「うむ、久しいのぅ。 入れ、茶でも煎れよう」





カードの真意「節度・加減・中庸」


さて節制、前後編でした。 ほんとーにほんとーにお疲れ様でした^^;
いやぁこんな長い話になるとは。もはや「カードの大部屋」ですね、たはは。

この節制のカード、読みにくい時には本当に読みにくいカードです。
実際に何を意味しているのか、鑑定の現場でも、
意味が取れない事、ちょくちょくありませんか?


このカードが意味しているのことがらは、
多くの場合は「丁度良さ」です。

暑くもなく、寒くもなく。
近くもなく、遠くもなく。
良くもなく、悪くもなく。

丁度いい温度。距離。こころの位置。
そういったものを意味するカードなのですね。

でも人間って、本当にこの「丁度良さ」ってのが取りにくい生き物なんです。


私達が一番不安になる時というのは、じつは「悪い時」ではありません。
不安になるのは「良いのか悪いのか、はっきりしない時」なのです。

良い時なら、そのまま進めばいい。
悪い時なら、何か手を打たなくてはいけない。

でも「はっきりしない時」ってのは、どんな人間であっても、
「どうしていいか分からなくなる」んですね。

でも、よくよく考えてみると、

運命ってのは「良い時と悪い時」ってのが「交互に来る」わけですから、
当然その間には「どっちだか分からない時」ってのが、

「必ず」なければいけないんです。「必ず」です。
まぁ考えれば、当たり前の事ですよね。
運命は途切れずに続いているんですから。

でも人は、そういう時期の事は記憶に残らないんです。
いい時と悪い時しか記憶に残らないから、

まるで運命には「いい時と悪い時しかない」ように、
錯覚してしまうんですね。






作中の主人公のような立場に立たされる瞬間ってのは、
私達の日常の、多くの場面で出てきます。

自分のやっている事が結果がなかなか見えて来ずに、
このままで良いのか、悪いのか、全く分からない時期。
そんな時、人はどうすれば良いのかを教えているのが「節制」で、

つまり「決断しなくていい」んですね^^

そんな時期は、何も決断しなくていい。
むしろ不安を抱えたまま、日々を過ごさないといけない。
運命が「相」を与えるまで、その時の私達には、
何もする事はないのです。

逆に何かをしてしまうと。

「今のままで良いんだ」なんて自分に言い聞かせてしまうと。逆に、
「今のままじゃダメだ」なんて判断してしまうと。

運命の相は見えなくなっていきます。それはそうですよね。
だってどちらも「偽り」の決断なのですから。

「不安な時」は「不安だ」っていうのが、正直じゃないですか。
「わからない時」は「わからない」ままで、いいんです。


そういう時は、できるだけ精神はニュートラルがいい。
根拠なくポジティブでも、ネガティブでもいけない。

そういう時期なんですよ、って言うのが「節制」の意味です。
そして、そういう時の方が、じつは「試練」だったりします。


これはタロットにとって、とても大切な考え方ですが、


試練は本来「悪い時」なのです。なのですが、
それは「運命を分かるもの」つまり神様には当てはまる事で、
人間にはもう一つ試練があるのですね。
「悪い時」と、「いいのか悪いのか分からない時」です。

人間は運命に対して無知な生き物なので、
「悪い」のも苦痛になると同時に「分からない」のも苦痛になるのです。

「悪い」のは神でも人間でも同じ苦痛ですが、
「分からない」のは人間だけが持つ苦痛で、

神より苦痛が多い人間は、可哀想なのです。

ですから「悪い」という試練は、神も人間も「自力」で越えなければなりませんが、
「分からない」という試練は、人間に対して運命が「手助け」をしてくれます。


それが「相」です。 「偶然」と言ってもいい。

その「相」が起こるまで、「偶然」が起こるまで、
決して自分を偽って行動してはいけない時期が「節制の時期」で、

だからこそ、こころに「節度」が、必要になるんですね^^




さて次は「悪魔」の物語です。

どんな人生が、待っているのでしょうか?


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