殉命と対をなす特殊命である「太命」。

運命の群れの中で「因果による光の網」を作りだす殉命に対して、
この「太命」は、運命の「闇」を司る。

「太命」の性質は誰にも見えない。おそらくは本人にも見えない。
「太命」を持つ人の人生は「拓命」に似て、
外見上は地味で堅実な人生である。

本人の宿星とも関係なく、素早く動き回る事も無く、
そこまで大きな波乱がある事も無い。

よって「太命」の人を占う場合は、
その鑑定において「拓命を用いる」のが妥当である。
それで大きく外れる事は無く、問題も無い。

平穏な人生を送るはずである。




そこに「誰も訪れぬ」限りは。

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元来、数秘の考えにおいては、
人は「性格の数」と「運命の数」と「願望の数」を持つ。
この3種の数の「せめぎあい」で、その人の意識や行動に変化が生じ、
人はそれぞれの人生を歩み、星は近付き、また離れ、お互いに引き合い、
輝いている。

しかし、

例えばそこに「どうあっても進めない数の組合わせ」を持つ人がいる場合。
それとは逆に「あまりに数が重なり、暴走する運命」を持つ人がいる場合。

その運命は「太命」を求める。



「太命」とは「他の運命に変異を起こす力」を持つのだ。

この力を持つのは「太命」のみである。
他の運命は、それぞれが数の特徴によって、
互いに影響を与え合う事があったとしても、
相手の運命そのものまでを「変質」させる力は持たない。

「太命」は、これを行なう事を役割とする運命である。

この変異がいかなる理由で起こるのか?
変異には一定の法則があるのか?
どのくらいの期間をもって変異が完了するのか?

すべては「竜の墓」に隠され、知られる事は無い。

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よって「太命」はその人間関係を考える時、一つの特徴が存在する。

「太命」に関わる人間、その周囲に集う人間には、
数秘による「運命の性格」に「そぐわない生き方」をしているものが多い。
しかもそれは長期間継続され、大きな問題もなく人生が進んでいる。

これらは「変異の過程」にある運命たちである。
おおまかには「奇数命→偶数命」「偶数命→奇数命」的な変異が起こるが、
どの数がどのように変異するかは算出できない。

彼らは「太命」の傍にいる時、他の場所における彼と「違う人間」のように振る舞う。
彼らの運命もそうである。
一切の数秘の法則は「太命」の周囲では通用しない。

よって「太命」を持つ本人は、全く地味な生活であるにも関わらず、
非常に「特殊な性格」「奇異な人生」を持つ人間と接する機会が多く、
彼らは幾度となく「太命」から離れ、また近付き、また離れて行く。

完全な変異の終了した運命は、最終的には離れて行くのであろうが、
その時期がいつなのかも、誰にも知る事はできない。


最も問題なのは、


こういった「特殊な人間と運命」に相対する機会の多くある、
「太命」を持つ本人そのものが「普通の性格」である場合。
その「日常における精神的疲労」が、はかり知れないものとなる事である。

よって「太命」を持つ人間の課題は、
精神において「揺るがない」事にある。

おそらくは周囲の人間から、
「さまざまな人生のパターン」を見せつけられるであろう事は想像に難くない。
そこには「人の世の善悪や倫理」の通用しない事柄すらあるかも知れない。

その一つ一つに全て影響を受けているようでは、
太命の人間は「こころを壊される」おそれがある。
これこそが太命の試練であり、そして、

逆にこれを乗り越えれば、太命は「極めて許容の深い」精神状態を
手に入れる事もできる。
太命を持つ人間が数秘によって「優れた指導者の気質あり」と唱われるのは、
まさにこの部分に端を発するのかも知れない。



殉命の司る「因果」の本質に「善悪」の教えがあるとするならば、
そしてそれを「光の教え」とするならば、

太命の司る「因果の外の運命変化」の本質には、
「天魔」の教えがあり、そこでは「人界」の「善悪の考え」は効を奏しない。


太命の力は、
「人の思いのおよばぬところ」に存在する。