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「従の気」は、その陽に「観(観相)の気」を持って生まれる気です。
「仁の気」はこの世界に新しいものを産み出す「誕(誕生)の気」がありましたが、
その生まれたものに対する環境からの「リアクション」を
主に司るのが「従」の性格なのですね。
それは時に「補完/補填」かもしれません。
「反抗」かもしれませんし「同意」かもしれません。
そこに生まれたものを観察し、検討/分析して、
それに反応を返すのが「従の気」です。多くの場面では発展的・前進的な反応です。
ただ時には「従の気」は「仁の気」に対して、
「環境的な制限」を加える事も多くあります。
逆に「仁の気」が何も産み出さないと「従の気」は動きが取れない、
なんて言う場面もあります。
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この数の性格は、そのまま人物の性格にも反映されます。
「仁の気」を持つ人と「従の気」を持つ人は、お互いに束縛しあいます。
それは良い結果を産む事も、逆に悪い結果を産む事もあります。
「仁の気」の人にとって「従の気」の人は、
常に「御意見番・忠告者・分析者」として作用するでしょう。
逆に「従の気」の人にとって「仁の気」の人は「発明者・立案者」として作用します。
この関係が上手く回れば、非常に良いパートナーシップを維持する事ができますが、
下手に相手を「口うるさいやつ」とか「勝手なやつ」と評価してしまうと、
お互いの「陰の気」が作用します。
「仁の気」の「陰」は「衝(衝突)の気」でしたが、
「従の気」の「陰」は「疑(懐疑)の気」です。
この気が発生してしまうと「従の気」の人は「あまりにも現実的」になり、
新しい事に「批判的」になり物事に関して「保守的」になってしまうのですね。
せっかく本人が持っている「優れたバランス感覚」は、そこでは裏目に活動してしまいます。
多くの事が保留され、前に進まなくなってしまうのです。
本能的に新しいものを産み出そうとする「仁」と、
それに対して、バランスを取ろうとする「従」。
これら2つの気は、進行中の物事には良くも悪くも作用しますが、
周囲の環境、特に「人間関係」に関しては、
どちらもけっこう頓着がなかったりします。
そこをサポートするのは、新しい数である「相の気(3)」です。
それはまた次回に。
■加護を与えるアルカナ「愚者・女帝・皇帝・法王」■
生命の木において「コクマー」に接続した「愚者・女帝・皇帝・法王」の
四つのアルカナが、この「従の気」を加護します。
「愚者」と「法王」は「子供の奔放さと老人の思慮深さ」、そして、
「皇帝」と「女帝」はそのまま「能動的現実性」「受動的現実性」と対比をなし、
その結果、従の気を持つ人の性格に「極端な二面性」を与えます。
実際、従の気を持つ人の性格は、まるで多重人格のような「時期による変動」が見られ、
それも両極端な変化を見せるので、周囲は意外と思う場面がしばしばあります。
想像力過多で奔放に振るまい「まるで子供のように見える」時期もあれば、
長年の辛酸を舐めてきた思慮深さや、時に冷徹とも言えるリアリズムを見せる場面も。
ただ性格は極端に変化しますが、その「周期」には一定の法則がありますので、
長い事つきあっていると、本人の状態が「どの時期にあるか」というのは、
割かし分かりやすかったりします。
そして偶数の気が強い、この日本国内において、
従の気の人物は結構な位置まで登り詰める事が多く、
実務的な社長の皆さんにも、良く見られる気なのですね。
この国は偶数気質の方が、成功しやすいのかも知れません。
容姿は「愚者と法王」という「子供と老人」の雰囲気を受け継いでいるせいか、
全体的に小柄で小動物的なところがあります。
「女帝・皇帝」の両方の性質が相殺されているため「容姿は中性的」で、
これを総合すると、男性にしろ女性にしろ、
「成熟したセックスアピール」とは非常に遠い位置にあります^^;
不細工という意味ではないですよ、可愛いのです。なんとなく。
従の気の人は全体的に外見が可愛く見えて、しかし、
その奥に「カミソリのように切れる」意識が眠っているのが、怖いところなんですね^^;

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